日航ジャンボ機墜落事故とミサワホームの経営の転換点(後)
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日航ジャンボ機墜落事故で山本幸男氏を亡くす
1985年8月12日、東京発大阪行き123便の日本航空ジャンボジェット機が群馬県御巣鷹山に墜落した。乗員乗客524名のうち死者は520名、生存者はわずか4名という、航空史上最大の惨事となった。日航ジャンボ機に搭乗していたミサワホーム専務の山本幸男氏も、この事故で不帰の人となった。48歳だった。
三澤氏の妹をめとり、三澤一族の一員として親友以上の関係にもあった山本氏の死は、三澤氏にとって筆舌に尽くし難い苦しみであった。技術志向の三澤を、商売の観点から補佐してきた山本氏は、「ミサワホームの経営の舵取り役」と業界で評されていた。
三澤氏は自身のブログ(2007年8月7日付)で「山本幸男という男」と題して書いた。〈山本と私は、まるでタイプが違うんです。彼は文系で私は理系。私はせっかち、山本はのんびり屋。商売も、私はフローで回転が速い方が好き。彼はストックの堅実派。着ている服は、私は全部紺で、彼は全部茶色。彼は酒が飲めて、ゴルフが好き。私はゴルフも酒もダメ。彼は歌がうまく、私は音痴などなど――ことごとく違いました。
もちろん、仕事を一緒にやっていても、口を開けば逆のことを言う。でも、これが経営のバランスになりました。「なるほど、そういう見方もあったか」と気付かされるのです。ですから、違っていたことは幸運でした。
しかし、その山本は、あの8月12日の日航ジャンボ機事故で亡くなりました。会社が最後に成功できなかったのは、山本がいなくなったからだと指摘する同業者がいるらしい。それは私には分りません。でも、そうかもしれないという気持ちはあります。〉三澤氏のゴルフ場への投資を止める男がいなかった
技術の三澤氏と経営の山本氏。性格から物の考え方まで正反対の2人が手を携えたことで、ミサワホームは日本一の住宅会社へと駆け上がっていった。その山本氏が日航ジャンボ機墜落事故で他界した。このことが、ミサワホームの経営の転換点となった。技術屋の三澤氏が経営をやらねばならなくなったからだ。
時はバブルの時代。ミサワホームは、バブル期に土地投資や不動産担保融資、ゴルフ場開発やリゾート開発に走った。三澤氏の大失敗はゴルフ場に手を出したことだ。ゴルフ場を100カ所つくる目標を立て、ゴルフ場の開発に1,000億円を投じた。これがバブル崩壊で不良債権の山になってしまった。
なぜこれほどまでにゴルフ場投資にのめり込んだのか。住宅で大成功した才能をもってすれば、ゴルフ場の覇者になれるという万能感に酔いしれていたのかも知れない。山本氏がジャンボ機墜落事故で亡くなっていなかったら、無謀なゴルフ場投資に走らなかっただろうと言われている。三澤氏はビジネスパートナーを失ったため、糸が切れたたことなってしまった。
斬新な住宅をつくる三澤氏と堅実経営の山本氏の二人三脚の経営が続いていたら、大和ハウス工業や積水ハウスと並ぶ住宅メーカーになっていたことは間違いないだろう。惜しまれてならない。カリスマ的創業者にとって、ビジネスパートナーがいかに大事か。事業を志す起業家たちは、ミサワホームの挫折を半面教師にしてほしい。
(了)
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