2024年12月23日( 月 )

日中「草の根外交」新時代の予感!(前)

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元中国留学生後援協会 会長
(株)ヤオハル 会長 五十嵐 勝 氏

 今年は日本と中国の国交正常化45周年、来年は平和友好条約締結40周年に当たる。しかし、近年は両国民の感情が政治に翻弄され、必ずしも友好的とは言えない状況が続いている。今や、中国を抜きにして国際情勢を語ることはできない。そして、日本と中国は「一衣帯水」の関係にある。両国民の関係がこのままでいいわけがない。
 今、日中「草の根外交」が再び本格的に動き始めようとしている。主人公は、千葉県船橋市で青果業「八百春」を営む五十嵐勝氏(75)である。五十嵐さんは1985年ごろから2000年代前半までの約20年間で、中国人留学生約4,000人の面倒を見て、留学生から「日本のお父さん」と呼ばれている。日本で懇親があり帰国した留学生・大使館関係者のなかには、現役の共産党幹部も数多い。その業績は、これまでに日中両国の新聞・雑誌・TVなどで紹介された。また、五十嵐さん夫妻をモデルとした映画『北京的西瓜』(大林宜彦監督)も放映され、関連書籍も複数出版されている。船橋中央卸売市場に、五十嵐勝氏を訪ねた。

友達と遊ぶお金がなく、家に閉じこもって本を読む

 ――近年は、日中両国民の感情は、政治に翻弄され、必ずしも友好的とは言えない状況が続いています。本日は政治と少し離れ、日中「草の根外交」に関して、いろいろとお聞きしたいと思っております。まずは五十嵐さんのことについて教えてください。

 五十嵐 私は、福島県の会津市に生まれました。父は戦死し、母親と祖母に育てられました。母は当時、小学校の代用教員でした。教育に厳しく、官舎住まいで、周りも先生ばかりという最高の教育環境だったため、成績は優秀でした(笑)。

 小学校3年生のときに、いわき市の平(たいら)に転居します。おそらく子どもを育てていくのには、代用教員の給与では難しかったことが理由だと思います。母親は平では、製糸工場に勤務することになります。会津は平と比べると教育レベルが高かったので、ここでは、成績が良かったばかりでなく、“神童”と呼ばれたこともありました(笑)。

 実は、成績の良くなる理由があったのです。家があまりにも貧しかったので、友達と遊ぶお金がなかったのです。そこで、家に閉じこもって、本ばかり読んでいました。平に転居した小学校3年生のときには、すでに当時のとても分厚い『朝日年鑑』(朝日新聞社)の約80%を読破していました。

自分への悔恨が支援したくなる気持ちにさせている

 このころは、自分も母も、将来は学校の先生になることを希望していました。しかし、中学校を卒業する時点で、高校の学費が工面できないことを知り、進学を断念して上京し、莫大小(メリヤス)屋に就職しました。その後、母親の勧めで、一旦いわき市に戻った後(定時制高校に通い、日通いわき支店やうどん屋さんなどで働く)、再上京して上野の煎餅問屋に就職しました。

 私は、昔からモノを売るのは得意かつ好きだったので、営業成績はすごく良かったです。また、得意先に寸暇を惜しんで通い、陳列なども手伝っていたので、可愛がられました。

 父を早くに亡くして、母1人に育てられ、「勉強しろ、勉強しろ」と言われながらも、結局はお金がなくて夜間(高校の定時制)の学校にしか行くことができませんでした。今思うと、このときの自分への悔恨が、お金がなくて勉強している人を見ると身につまされ、どうしても必要以上に支援したくなる気持ちにさせているのかもしれません。
(記者注:その後、五十嵐さんは1994年に52歳で明治大学文学部に合格している)

「八百春」の経営は順風満帆で小さなビルになった

 そのうち、ある得意先の方から、船橋市の夏見台に大きな団地ができて、自分もそこでスーパーを経営するので、そのなかで肉屋、魚屋、八百屋のどれかをしないかというお話をいただくことになります。そのときはあまり考えずに、肉屋や魚屋は難しそうだと判断して八百屋を選びました。

 間もなく友人と共同経営で青果店「八百春」を出店しました。当時私は、すでに先の煎餅問屋の同僚(奥さんのふみさん)と職場結婚(1967年4月)していました。「八百春」出店当初は、私は八百屋、妻は煎餅問屋と別々に働いていました。その後、友人と私が袂を分けたのを機会に妻が煎餅問屋を辞め、「八百春」を二人三脚で営んでいくことになりました。

 開店当初は、道路を隔てた店の前にできる予定の夏見台団地がまだできていなかったので大変に苦労しました。しかし、やがて、待望の団地が立ち上がると、一挙に売上が増えました。その後、「八百春」の経営は順風満帆で、小さなビルに建て替え、鮮魚、乾物、惣菜、さらにはクリーニングコーナーまで、ミニスーパー化していきました。

(つづく)

【金木 亮憲】

<プロフィール>
五十嵐 勝(いがらし・まさる)
 1942年、福島県会津市生まれ。85年ごろから2000年代前半まで、中国人留学生約4,000人の面倒を看た。89年、第1回「倉石賞」(日中学院 倉石武四郎先生記念基金)を夫妻で受賞。中国の大学および日本語学校で使用する日本語学習書『新編日語』(上海外語教育出版社)の第16課のタイトルは「五十嵐勝さん」である。また『中外名人辞典』(中国の紳士録と言われる)に、日本人として唯一人載る。
 訪中は200回を超え「中南海」に行き、「迎賓館」にも宿泊した。民間人として、胡耀邦(第3代中国共産党中央委員会主席)、孫平化(第3代中日友好協会会長、日中国交回復に尽力、)、唐 家璇(元外相・国務委員)、武大偉(元外務次官・駐日大使)、鄧穎超(周恩来夫人、第4代全国政治協商会議主席)、王光美(劉少奇夫人、元全国政治協商会議常務委員)など多くの中国要人と面会した。

 
(中)

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