2024年12月27日( 金 )

ヨシヒコのぶらり漫歩シリーズ・南北海道は冷夏なり(2)~函館の原点・明治維新

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函館の歴史は室町時代中期

 8月13日の函館はまたまた曇り・一時小雨最高気温20度で長袖が必要だ。函館の都市づくりの結論は「幕末の動乱で函館の今日があるが、次の策が無い」である。今後、期待できるのは「観光のみ」といえる。

 函館という都市は南に突き出ている函館山に向って都市づくりがなされた。海抜360m程度の山が岬役を担っている(13日午前中、函館山頂からは何も見えず)。南側へ向けて函館山がそそりだしている。この南向きに国際都市が形成されていた。日米修好条約で日本は6港の開港を約束した。横浜、下田、新潟、神戸、長崎、函館である。下田は廃れ新潟は鳴かず飛ばず。4港はそれなりの発展を成し遂げた。

 江戸時代中期から、函館の物流拠点としての存在感はあった。北前舟の発信基地は松前になっている。松前から山形県酒田までのコースが設定されている。酒田から難波(大阪)へ運ばれる海運業は繁盛を極めたのである。しかし、実際の北海道の名産を集める集荷の物流拠点はこの函館がこなしていた。事実、高田屋の親分(高田屋嘉兵衛)の行動の本拠地は函館にあった。

 その点からも頷かれる。アイヌの物流中心を江戸時代後半には函館が中心であったのだ。歴史的にみると函館という地名は室町時代には登場しているといわれる。当時からアイヌと本州の貿易交流の源はあったのだ。その物流実績の変遷を経て函館と言う地名は歴史的に残った。そして江戸時代を通じてアイヌとの交流の拠点として繁栄してきたのは事実である。

幕末期にハイカラシティが築かれる

 明治維新前の幕末動乱、海港6港に選ばれた。イギリスは早速、領事館を構える。ロシアも然り。外国人が住みつくようになった。当然、キリスト教の布教が活発になる。面白いのはキリスト教会とお寺さんとが隣り合わせになるところが数多くある。お上の主導によるものであろう。

 そのエリアが元町周辺になるのだ。このゾーンは函館山北側中心に築かれていく。この山に向かって集落地域が形成されていくから当然、坂道が多くなる。だから八幡坂とか呼ばれる場所が10カ所以上ある(但し長崎の坂と比較する短い)。今でも異人・洋館の雰囲気が国際的な情緒を醸している。この雰囲気こそが函館の魅力である。年間500万人を超える観光客が訪れる理由が元町に立てばよくわかる。江戸時代の幕末という短期間に函館ブランドが確立された。

観光ブランドしか活路が見いだされない、これでは寂しい

 戊申戦争の最後の決戦になったのが、函館戦争であった。幕府軍をリードしたのが、榎本武揚である。土方歳三は戦死した。五稜郭を戦陣として戦ったが、あえなく敗北した。明治時代は物流交流の中核を担ったが、貿易では小樽から抜かれた感じであり北洋水産港として活発化した。ニシン御殿は数多く建てられたそうな。

 明治の終わりから青森との間に青函連絡船が就航して北海道の玄関口となる。函館は函館山に向かって細長い街並みになっている(東西海)。火災のたびに逃げ遅れて死傷者が続出する苦い被害が起きてきた。一時は北海道で最大の人口を誇った時もあったらしい。最終的には札幌がトップになる。現在は3位。

 昭和20年以降は玄関口と漁業で都市力を保ってきたが、昭和40年以降、人口衰退が目立ってきた。しかし、観光誘致には注力してきたことでその成果は着実にあがっている。年間500万人を超えているそうだ。やはり函館ブランドを高めてきた努力が実ってきたと評価される。観光ブランドしか都市・函館を盛り上げる策が無いとなれば将来が心許ない感じを抱いて離れた。

(つづく)
【青木 義彦】

 
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