シリーズ 部下の目から見た高塚猛(2)~島津三郎氏・星期菜(株)取締役
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星期菜(株) 島津 三郎 取締役
高塚さんが出した初めてのミッション「年間予約席を5億円売ってくれ」
高塚さんは、1999年の4月初旬にシーホークホテルに赴任してきました。高塚さんのことは「リクルート出身の人」ということ以外に、盛岡グランドホテルを再建した方ということでホテル関係者には知れ渡っていました。本も出ていたことから、私を含めてみんな「どんな厳しい方なのだろうか」と戦々恐々としておりました。
ただ、どこかで「本当に立て直せるのだろうか?」という思いもありました。というのも、それまでダイエーから何人もの経営陣がやってきて再建を試みたにもかかわらず、誰も結果を出せていなかったという現実がありましたから。「また同じ結果になるではないのかな」と半信半疑でした。
高塚さんがいざ赴任されると同時に、いろんなことを試みられましたが、こと料飲部については不思議と何も動きがありませんでした。普通に考えれば、すぐに料飲部長が呼ばれて「今どういう状況か説明しなさい」なんて問い詰められるはずなのですが、まったく何も動きがない。
その当時、高塚さんはシーホークホテルの1室に泊まっていて、食事もすべてホテル内でとられていました。当時は24時間営業の店舗があり、高塚さんが朝6時前から朝食の会場を見てまわっている、という情報が入ってくるようになりました。見てまわるにしても、普通なら責任者を呼んで「今日の食事メニューは?予約状況は?」なんてことを聞くはずですが、そうではなくて若い社員や新入社員を捕まえてはこそこそと耳打ちしているらしい。毎朝そんな報告をその日の責任者から受けるから、こちらとしては気になってしょうがないのです(笑)。仕方がないから、こちらも朝早くにレストランに出て高塚さんの後を追いかけながら、高塚さんに呼ばれた社員に、「何を聞かれた?」と確認していく。でも、特に変わったことを聞くわけでもなく、怠けている社員のことを告げ口させたりしているわけでもないのです。「どう!仕事は楽しいの?」とか「何か悩みがありますか?」とか…。そんなことを聞いてまわっておられました。そんな状況がしばらく続く中で部課長クラスの認識が変わり、「朝食の早い時間帯にも誰か責任者が必要なのだ!」と悟らされました。今から考えれば、高塚マジックの始まりでした。
その後に手をつけたのが、当時、「ダイエーのホテルだからつぶれることはないだろう」と高をくくって入社してきた首脳陣に対する処遇でした。まず、ダイエー出身を含めてそんな方々を数名集めた、営業推進部という新部署を作りました。「あなたたちは名前もあるし、人脈もある。だから1年間で1人につき1億円の売上実績を上げて欲しい。宿泊でも宴会でも料飲でも、売るものはなんでもいい」と。会社にいる必要はないので、とにかく1億円の実績をあげてくれとまで言われたらしくて、その首脳陣はそれなりのプライドを持った方たちばかりでしたので、この処遇で1人を除いた全員が辞めてしまいました。
この首脳陣については、「出入り業者とつるんで悪さをしている」といった様な噂が高塚さんの耳に入っていたはずですから、そこをまず正さねばと思われたのでしょうね。ただ、これはリストラとか追い出しとかではなくて、本当に成果を出せばきちんと評価する為の新部署でした。その方々は本当に多くの人脈をお持ちなので、本気でやれば1億円くらいなんでもないのですから。ただ、考えてみれば、この時に最初の敵を作られたのかもしれません。
私はというと、高塚さんが赴任して2カ月経った6月くらいになっても、まったく呼ばれることがありませんでした。宿泊部長が呼ばれた、宴会部長が呼ばれた、という事を知っていましたので、「料飲部長である私が何もないわけがない」と思いながら、悶々とした日々を送っていたのです。
そうしたころに、「ちょっと島津さん、いいですか」と、呼び出しがかかりました。こちらとしては「ついに来たな」と(笑)。どこかに転勤でもさせられるのかと思っていたら突然、「島津さん、年間予約席を売ってくれませんか」と言われたのです。要するに、気に入った社員を20人ほど自由に選んで短期の販売チームを編成し、そのチームで年間5億円を売ってほしいということでした。
5億円とはすごい金額ですから、最初は無理だと思いました。無理を承知で押し付けているのであれば、「ついに俺はそっち側(リストラ)か」と落ち込みかけたところに、高塚さんはこう続けられたのです。「でもね、島津さんは料飲部長としてきちんと成果もあげて、本当に良くやってくれているから、レストランから抜けてもらっては困るんですよ。申し訳ないが、両方の業務を兼任でやってもらえないだろうか」と…。それを聞いてやっと、本気で自分を評価してくれているのかな、と思えてきました。
そこまで言われたら5億円売らなきゃならない。まず、私1人だけではどうにもならないので、のちに球団代表になられた優秀な営業課長を選任させていただきました。そして2人で社内をまわって、営業部から「この社員をしばらく貸してくれ」なんて交渉をするわけです。でも、こちらが選ぶ社員はその部でも必要不可欠な人材なので当然離すわけがなく、「抜けられたらうちの部の死活問題だ。勘弁してくれ」とくる(笑)。誰なら良いのですか?と聞くと、たいていは営業成績が振るわない人間を推薦してくるんですね。どこの部署でもそういう扱いをされながら、なんとかして15人を集めました。しかし、どうしてもあと5人足りない。
困り果てた私は、こう考えました「私の言うことを一番良く聞いてくれるのは結局、料飲部(レストラン)のマネジャーやチーフ陣だ。でも彼らを専属で営業に従事させたら肝心の各レストランがまわらなくなる」と。そこで高塚さんに相談してみました。「レストランのこの社員達をチームに入れたいと思っていますが、そうすると肝心のレストランの仕事に支障が出ます。よろしければ、昼は営業に行ってもらい夜は現場で本来の接客業務に戻したいのです!つまり兼任ということですが、どうでしょうか」と。高塚さんは意外にも「いいですよー!」と2つ返事で了承していただけました。
そうやって、私を含めたレストランの上司たちが営業活動するようになると、それを見ていた料飲部の社員を初め、調理部門の社員の方々まで販売を手伝ってくれるようになったのです。当時はダイエーホークスの成績も上り調子で、年間予約席が売れやすくなってきたことも追い風になり、みんなで手分けして販売活動に取り組みました。「マネジャーが頑張っているなら」と、料理長にも取引の業者さんを呼んで営業していただきました。空いた時間ができたら制服を脱いで知り合いに営業をかけるようにまでなって。
実績が上がるとうれしいし、褒められる。レストランの仕事が「やらなきゃいけない仕事」だとしたら、これは高塚さんが良くおっしゃっていた「やったらうれしい仕事」なんです。
(つづく)
【NetIB-News編集部】<プロフィール>
1949年生まれ、福岡市中央区出身。西南学院高校卒業後、東京YMCA国際ホテル専門学校を経てホテルオークラ東京へ入社。1970年代に九州初のフレンチレストラン「花の木」を立ち上げ。その後、複数の飲食店支配人を経て、1995年にシーホークホテルアンドリゾート入社(中華料理「龍殿」開業準備室支配人)。料飲部長、取締役総支配人を歴任して退職後、「ブッチャー警固」を開業。現在は「天職」と語るギャルソンとして中華料理「星期菜」に立つ。
●星期菜
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