2024年11月25日( 月 )

シリーズ 部下の目から見た高塚猛(5)~島津三郎氏・星期菜(株)取締役

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星期菜(株) 島津 三郎 取締役

「人を変える」ことで組織を変える、高塚イズム

 高塚さんは、人を中心に組織を変えようとされていたのだと思います。結局、人の活用こそが組織を活性化させる大きな要因だと確信されていたのでしょう。その年にダイエーホークスが初優勝したのにも、その方針が大きな影響を与えていたと思います。

在りし日の高塚さんと。左が、佐藤賢二・元球団代表

 ダイエーホークスはその当時、毎シーズン良くて4位か5位の万年Bクラスの球団でした。それでも、1999年は春先からは出足が良かった年で、ある日高塚さんがタクシーに乗られたときに、運転手さんに「今年はダイエーがやってくれそうだね」と話しかけたら、「いやいや、ダイエーは五木の子守歌ですけん」と返されたそうです。どういう意味かと尋ねると、「盆から先はおらん(盆過ぎたらBクラスが定席)」ということで(笑)、調子の良い時期は長く続かないということだったのですね。

 高塚さんは、「なるほど。じゃあ盆から先に落ちなければいいわけだ」と考えました。高塚さん自身はあまり野球に詳しくないので、具体的な戦略を作ることはできません。そこで福岡市民に一丸となって応援してもらうことが最良の策だ!と、そう考えられたわけです。当時、ダイエーホークスのロゴマークに代表されるライセンスビジネスは球団の安定収入であり、使用した場合は宣伝製作費の額に応じた使用料をダイエー球団に払うことになっていました。この収入が年間に1億円以上あるので、球団にとっては大事な収入源だったのです。高塚さんはそれをやめようと提案しました。「市民、企業をあげてホークスを応援してもらうために自由に使ってもらおう」とね。

 スタッフが奔走してさまざまに交渉した結果、福岡地場のデパートでダイエーホークス応援セールを行ってくれることになりました。じつはこれ、すごいことなのです。というのも、ダイエー創業者の中内功さんが天神地区にダイエー・ショッパーズを作ったときに、「他の商業地区にペンペン草を生やしてやる」と豪語したことがあって、当時、地場のデパートや商店はダイエーを敵と見ていたのです。だからそれまでデパート等がダイエーホークスを応援するなんてことはありえなかったのが現実でした。

 いち早く岩田屋デパートが「応援セール」と銘打ち、球団の応援歌を流して、ホークスのユニフォームを着た店員さんがこぞって、「岩田屋は福岡ダイエーホークスを応援します」と大々的にやっていただきました。その企画は評判を呼びお客さんが殺到して、売上もどんどん伸びていきました。負けじと玉屋さんや井筒屋さんもそれに続いていただき、応援の輪がどんどん広がっていきました。最後までその流れを冷静に見ておられた大丸さんも、重い腰を上げて応援していただけるようになったのですが、屋上からの垂れ幕には「大丸は福岡ホークスを応援します」と書いてありました。どうしても「ダイエー」と書きたくなかったのでしょうね(笑)。もう20年近く前のことですのでお話しても時効でしょう。

星期菜(株) 島津 三郎 取締役

 ロゴマークについては誰でも使っていいことになったので、そのうちに、なんとラブホテルまで使い始めるようになりました(笑)。地域挙げての応援の結果、高塚さんの目論見通りに「盆から先」に沈むこともなく、篠原(貴行投手)がでたら逆転するという神話までできて、ついに本当に初優勝を達成できました。

 当時の現場にいた一人として確信しているのですが、あの時に高塚さんが何も手を打たなかったら、まず優勝できなかったと思います。地域全体の盛り上がりが選手たちの背中を押したのです。その根拠は、入場者数の増加です。それまで、まだ売れていないチケットは「金券」として当日まで大事に金庫にしまっていました。しかし当日の試合が終われば、その金券はただの紙切れになります。そのことで何か特別な策を講じて入場者を増やそうというこだわりも、あまり感じませんでした。たとえば「配券の魔術師」と呼ばれる社員がいて、1万人しか入っていなくても席の配置を工夫することで2万人いるように見せることができるテクニックが、「すごい」と称賛される環境だったようです。

 そういった風潮を変えて、野球のチケットを活用してホテルで婚礼があればお土産としてプレゼントすることもありました。宴会、レストラン、宿泊を利用していただいたお客様へ、そしてもちろん年間予約席やスーパーボックスをご購入された方々、またドーム内の看板広告を出していただいた企業様等にもプレゼントさせていただきました。その結果、連日満員を記録するようになりました。そして応援に来てくれたファンの方々にはグッズや風船を買っていただき、ビールやドリンク類、お弁当やおつまみ、デザート等も楽しんでいただき、プレゼントしたチケットからたくさんの売上を上げることができて、結果的には潤沢な利益を生むビジネスにつながりました。

 そんなファンの応援パワーを感じて奮起した選手や球団スタッフは、後半もしぼむことなく勝ち続けてくれました。その勢いで次の年(2000年)も優勝しましたからね。

 高塚さんとは、通算6年間ご一緒に仕事をさせていただきました。いま、「高塚さんの優れていたところって何だったのだろう」と思い返してみると、結局は「先を見る目と、適材適所でその業務に適した人材を登用し、それなりの結果が出せばそれなりのご褒美を出す」ということに尽きるような気がします。

 徹底して無駄を削るけれど、逆に必要と判断すれば思い切って投資して結果を出す手法など、思い切りの良い方でもありました。高塚さん時代にホテルの婚礼件数が、全国で2番目に多い年間1780件を達成しました。なぜこれが実現できたかというとその要因の1つに、婚礼費用の前払いを見直したことが大きく関係します。それまで婚礼にかかる費用はすべて前金でいただくことが前提条件でした。1件平均で約400万円近い金額を婚礼の前日までに振り込まないと、婚礼をあげることができなかったのです。若い2人にとっては大きな金額ですから、それが原因で断念するケースも多々ありました。それを高塚さんは、「一部前金を除き、全額回収は婚礼後で良いことにしましょう」と。現実的にも、ご祝儀も集まるから婚礼後の回収は可能です。仮に1,000件の婚礼を受注して運悪く1、2件の代金未回収があったとしても、その割合は1%にも満たない。それを恐れて1,000件の婚礼が500件になるよりも、はるかに良い結果を残せる! 高塚さんはそういう考え方で仕事に取り組まれる方でした。実際に、前金をある程度いただいて残りは後日ということで多くの件数を受注しましたし、実際に回収不能になった事例はほとんどありませんでした。

 婚礼を社員やお取引先が紹介してくれたら御礼を出すし、婚礼や年間予約席販売等を多数紹介してくれたスタッフにはボーナスの際に高評価で報いました。やったらやった分だけ返ってくるので、それぞれが「やろう」というという気になってくれました。人件費のあり方を見直し、昇格昇給制度も一新したある年のボーナス査定では、入社間もない女子営業社員がトップ査定を受けたこともありました。査定評価は全セクションの部長以上が一同に集まり、社員一人ひとりの評価を全員で話し合いますから、「この社員とこの社員はこんなに金額の差をつけるだけの違いがあるだろうか?」なんてことを細かく個人ごとに調節していきます。決定した評価内容は、担当上司がそれぞれの社員にきちんとフィードバックをします。その社員の評価できる部分と努力が必要な部分を説明し、「納得」して次のステージに挑戦する気持ちをもってもらうことが目的でした。

 高塚さんはたくさんの名言を産み出されました。「過去と他人は変えられない。自分と未来は変えられる」とかね。高塚さんと出会って私の人生も大きく変わりました。一緒に行動していたときはそれが当たり前のように思っていたのですが、いま振り返ってみると改めてすごい人だったと思いますね。高塚さんが亡くなられたのは本当につらい事実でした。できることならもう一度ご一緒に仕事がしたかった! 無念です。とにかく、「寂しい」の一言です。

(了)
【NetIB-News編集部】

<プロフィール>
1949年生まれ、福岡市中央区出身。西南学院高校卒業後、東京YMCA国際ホテル専門学校を経てホテルオークラ東京へ入社。1970年代に九州初のフレンチレストラン「花の木」を立ち上げ。その後、複数の飲食店支配人を経て、1995年にシーホークホテルアンドリゾート入社(中華料理「龍殿」開業準備室支配人)。料飲部長、取締役総支配人を歴任して退職後、「ブッチャー警固」を開業。現在は「天職」と語るギャルソンとして中華料理「星期菜」に立つ。
●星期菜
URL:https://seikeitsai.jp/

 
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