2024年12月26日( 木 )

プレイボーイ創業者ヒュー・ヘフナーを偲ぶ(4)

記事を保存する

保存した記事はマイページからいつでも閲覧いただけます。

印刷
お問い合わせ

国際政治経済学者 浜田 和幸 氏

目立たない少年がメディアに出会い開花

 ヘフナーが生まれたのはシカゴ。1926年4月9日のことだった。家族のルーツはイギリスからメイフラワー号に乗り、アメリカ大陸に渡ってきたプロテスタントにあるとのこと。知能指数(IQ)は152を記録し、極めて高い知能を授かったようだが、小、中学校とも鳴かず飛ばずの「目立たない存在」だった。一人で漫画を描くことに熱中していた。

ラスベガスのプレイボーイ・タワー

ラスベガスのプレイボーイ・タワー

 才能が開花したのは高校生になってから。自らが学生新聞を始め、自作の漫画を通じて学生生活の喜怒哀楽や大人社会への疑問や不満を訴える活動に没頭するのであった。高校を卒業すると、陸軍に入隊。除隊になるまで得意の漫画を軍の新聞に描き続けた。その後、生まれ故郷のシカゴに戻ると、美術学校に通い始め、解剖学を熱心に学んだという。もちろん生き生きとした漫画を描くためである。
 そして、イリノイ大学に入学。そこでも漫画に磨きをかけ、地元の新聞に投稿したり、大学のユーモア誌「シャフト」の編集に携わった。ヘフナーはそこで、後に「プレイボーイ」のプレイメイトの萌芽となる企画を試している。何かと言えば、「今月のキャンパス美女」というコーナーに他ならない。ノースウェスタン大学の修士課程に進んだヘフナーは個人の自由を追求する生き方への思いを強め、アメリカにおける性に関する法律の変遷に関する論文を仕上げた。

 ユーモアを忘れないものの、基本的には生真面目な学生であったようだ。大学院時代に出会ったミルドレッド・ウィリアムズと23歳で結婚。後にプレイボーイ帝国の後継社長になる長女クリスティーを含む2人の子供を、この結婚から授かったのである。

昇給交渉失敗が転機

 漫画に生きがいを感じていたヘフナーは自分の作品をあちこち持ち込んだ。その結果、シカゴの有名デパートにコピーライターとして就職。その後、男性誌として人気の高かった「エスクワイア」誌に移る。1951年のこと。イラストレーターとして腕を振るった。その2年後、同誌は本社をシカゴからニューヨークに移転することを決定。その折り、ヘフナーは「週給を5ドル上げ、65ドルにして欲しい」と会社に申し出た。しかし、すげなく却下された。

 これが転機となったのである。シカゴに愛着のあったヘフナーはニューヨークへの転勤を断り、会社も退職する。「もう安月給でこき使われるのはコリゴリだ」。自分で雑誌を立ち上げると決意した。これこそが「プレイボーイ」の始まりだった。

 1953年のことだ。元手は母親からの1000ドルを入れて、友人、知人からの借金8000ドル。創刊号が世に出たのは12月のこと。売り物は表紙にも登場させたマリリン・モンローのヌード写真。とはいえ、どれだけ売れるものか、ヘフナー自身も見通せなかったようだ。そのため、記念すべき第1号だが、表紙には日付の記載がない。なぜなら、第2号が出せる保証が全くなかったからである。
 ところが、店頭に並ぶや、たちまち大ヒット。5万部を超える売り上げとなった。その後は、ご承知のように、出版界の歴史を塗り替える大進撃だった。1960年代には「性的革命の寵児」ともてはやされるまでに登りつめ、1970年代には会社も株式公開。何と月刊誌としては記録的な700万部を超える売り上げを達成した。雑誌に加え、ハリウッドに進出し、映画やテレビ番組の制作にも新機軸を打ち出したのであった。

(つづく)

<プロフィール>
hamada_prf浜田 和幸(はまだ・かずゆき)
国際未来科学研究所主宰。国際政治経済学者。東京外国語大学中国科卒。米ジョージ・ワシントン大学政治学博士。新日本製鉄、米戦略国際問題研究所、米議会調査局等を経て、現職。2010年7月、参議院議員選挙・鳥取選挙区で初当選を果たした。11年6月、自民党を離党し無所属で総務大臣政務官に就任し、震災復興に尽力。外務大臣政務官、東日本大震災復興対策本部員も務めた。
今年7月にネット出版した原田翔太氏との共著『未来予見〜「未来が見える人」は何をやっているのか?21世紀版知的未来学入門~』(ユナイテッドリンクスジャパン)がアマゾンでベストセラーに。

 
(3)
(5)

関連キーワード

関連記事