失われた古代九州王朝の歴史(5)
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徐福は出発に際して、船に「五穀・鉄鋳物・陶器を作るロクロ」などを持ち込んだと、史記には明確に記載されています。
五穀とは、「米・麦・粟・豆・稗」の5種の穀物のことです。百工とは、青銅器や鉄器の鋳造技術者・勾玉や硝子玉等の装飾品製造技術者、麻や絹等を紡ぎ織る職工、土器を製作する陶工等の工人集団です。徐福は若者3,000人・五穀・百工を連れ出すときに、彼の親族を集め「始皇帝は、失敗すれば必ず報復するだろう、だから私達が出た後は、徐姓は名のるな」と言い聞かせ、三神山へ出帆します。
史記には、「徐福、平原広原を得、止まり王となりて、帰らず」とあり、その後三百年後の「後漢書・東夷伝」また、「三国志・陳寿」にも「止まりて王となった」と記述があり確実な歴史的事実と信憑されます。秦の始皇帝によって、はじめて中国は統一されました。始皇帝は国家体制をより強固なものにするため、農業生産を経済の基礎と位置付け、文字・度量衡・貨幣・律令の各種制度を統一し、さらには、大動脈となる道路を整備し、運河水利事業の建設に取りかかり、北方民族の侵入を防ぐため、「万里の長城」の増設・兵馬俑の建設等に多くの人民が駆り出されます。暴君といわれる所以です。
徐福渡来の動機は、始皇帝の暴政から逃れるため、「不老不死の仙薬探し」を大義名分とし、亡命を図った事が真意であったと思います。
始皇帝から逃れる事を主目的にしているからには、東海の辺境として、事前に水田稲作に適した湿地帯を密かに探索し、始皇帝に不老不死仙薬の提案をして承諾を得、目的地に向かったのだと考えられます。中国の江南地区の徐福伝承地と、佐賀県の徐福伝承地を最短距離で結ぶと700kmで、この南路北線航路を紀元847年6月に、唐の航海家がわずか三昼夜で帆走したとあります。
佐賀県諸富町浮盃新津、それは、有明海沿岸・佐賀平野を徐福が目的地とした場所に間違いないと思います。
徐福の故郷、連雲港市の徐福村も中国の稲作地帯である江南は、クリークが縦横にあり、筑後川平野・佐賀平野の地形にそっくりで、望郷の感があったのではないでしょうか。中国の水田灌漑の農法は「揚水灌漑」で、佐賀平野に稲の大量栽培が同じ農法で成功し、吉野ケ里遺跡の環濠集落はじめ、近隣各地に弥生文化が誕生し、発展していきます。(つづく)
【古代九州史家 黒木 善弘】<プロフィール>
黒木 善弘
1947年3月6日生まれ。九信電設(株)代表取締役。
社業は、福岡県警の交通信号分野の指定工事業者として、業界の会長職並びに電気工事業界でも、福岡県・全九州・全日本の役員を歴任し、2008年秋に黄綬褒章を受賞。
一方、社会奉仕活動として、ライオンズクラブに所属し、クラブ会長並びに地区・複合の各役委員を歴任し、現在福岡博多ライオンズクラブに所属する。
敬愛する古代史学者は、古田武彦氏、荒金卓也氏を挙げる。関連記事
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