失われた古代九州王朝の歴史(6)
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吉野ケ里遺跡から、銅剣や銅矛などを鋳造した鋳型が出土していることが、青銅器工房があった事実を示しています。中国の漢式鏡と同じ工法の国産鏡もつくられ、勾玉・ガラス玉、絹織物や土器などの多彩な物が発見され、男女若者により人口は増加し、吉野ケ里は「古代の国」として栄え、佐賀平野に弥生文化が誕生して行ったことでしょう。
この吉野ヶ里遺跡は、旧石器時代から中世にわたる各時代の遺跡が、段丘上に層状に展開されて、紀元前3~2世紀の遺跡は3ヘクタールもあり、1世紀以降は40ヘクタールに拡大・発展した遺跡である事が発掘され確認されています。
以前にも記しましたが、縄文土器は、縄の内側に沿って粘土を塗り付け、火にかけ、出来上がりに縄の跡が残るために、縄文土器と称されているのですが、弥生土器には、この縄状の痕跡がありません。
なぜか。それは成形のために縄ではなく、“ろくろ”を使うからです。発見された地名を採って“弥生式土器”と呼ばれています。始皇帝が強烈に渇望した「不老不死の仙薬」。
徐福伝説には、佐賀の金立山に薬を求め探索していた事が伝えられています。それは、フロフキという植物。カンアオサイと総称される物で、健胃成分が含まれ地元では胃薬・腹痛などに煎じて飲むといいます。
始皇帝の許へ届けられたかどうかは定かではありませんが、徐福は追跡を恐れて何度か使者を立てたことは十分考えられます。この使者の道程が、のちの「魏志倭人伝」に現れる「水行・陸行」の基盤を成すものと思います。始皇帝は徐福出航後、僅か50才で亡くなります。その原因は不老不死を求め、水銀を飲用したではないかと疑われています。
徐福の故郷とされる中国徐福村は、江蘇省の最北端、山東半島に近い港町の連雲港市にあります。連雲港市は黄海に直接面しており、ムツゴロウ・ワラスボ・エツなど、ここと有明海のみにしか生息しない生物がいます。捕獲方法も、有明海と同じだそうです。
前述しましたが、中国から日本へ渡来する際の航路には、山東半島から朝鮮半島西側沿岸を南下し、済州島~五島~有明海へ至る「北路」、もう一つは、中国東岸を南下し、寧波で風待ちし偏西風を待って黒潮に乗る「江南路」があります。「北路」よりも黒潮に乗る「江南路」の方が安全・確実で有るはずですが、徐福は始皇帝への使者を「北路」を使用し、如何に困難な地で仙薬を探しているかを装わせたのではないかと思います。(つづく)
【古代九州史家 黒木 善弘】<プロフィール>
黒木 善弘
1947年3月6日生まれ。九信電設(株)代表取締役。
社業は、福岡県警の交通信号分野の指定工事業者として、業界の会長職並びに電気工事業界でも、福岡県・全九州・全日本の役員を歴任し、2008年秋に黄綬褒章を受賞。
一方、社会奉仕活動として、ライオンズクラブに所属し、クラブ会長並びに地区・複合の各役委員を歴任し、現在福岡博多ライオンズクラブに所属する。
敬愛する古代史学者は、古田武彦氏、荒金卓也氏を挙げる。関連記事
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