失われた古代九州王朝の歴史(8)
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三千人の男女により人口も増え、倭人伝にも記載されているように徐々に部落集落が増え、稲作の水利の事で争いになり話し合いの結果、卑弥呼を擁立した邪馬台国では、ようやく争いが収まったとあります。
「親魏倭王」の印を授かった卑弥呼の死後、再度男王を立てたものの、各国は承認せず。また戦乱となり千余人が殺戮された。
吉野ヶ里の遺構からは、矢じりが刺さった人骨が多数発掘されています。そこで、卑弥呼の宗女壹与を立てたことで国中がようやく安定し、中国からは檄文で壹与に祝意を告げたとされています。
壹与が、貢物を持参させた使者を派遣した記述が、西暦239年「魏志倭人伝」記述の最後にあたり、その後空白の時代を経て、約400年後の西暦600年「隋書」に「俀王(隋書では倭国のことをこう書いています)あり、姓は阿毎、字は多利思北孤・阿輩鶏弥と号す」で始まる、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子にいたす、恙なきや…」の時代まで待つことになります。この空白とされる約400年、倭奴国の記述は本当に無かったのでしょうか。
私は、記述はあったと思います。
これをなかったことにしたのは、近畿大和王朝の継体天皇と筑紫の君磐井の戦いです。古事記・日本書紀の神話伝説で新しい国を構成し、卑弥呼、いや徐福から継続された北部九州の文化を、それ以前に国家は存続していないことにするために、すべての構造物・書物を解体・焼却したのだと思っています。
その証拠と思われる疑わしい出来事が多数ありますが、その一例として、1300年の長い歴史をもつ法隆寺に鎮座している仏像の謎として、釈迦如来三尊像は他の地に祭られていた物を持って来て、無理やり中央に据えたこと。薬師如来坐像など、どちらが法隆寺の中心の仏像かわからないのが現実です。
この仏像は、大宰府観世音寺にあったとされていますし、この釈迦如来三尊像が造られたのは、西暦623年だそうですが、670年に法隆寺は火災に遭っています。
670年の火災時には、釈迦如来三尊像はなく、その後搬入されたことを裏付けています。博多湾から船で、神宿る島沖ノ島に向かうには、能古ノ島・志賀島・玄界島と迂回して行きます。現在では海ノ中道として、志賀の島との間は陸続きですが、古代では志賀島との間には水道があり、満潮時には喫水線の浅い船ならば、航行する事が可能だったでしょう。
(つづく)
【古代九州史家 黒木 善弘】<プロフィール>
黒木 善弘
1947年3月6日生まれ。九信電設(株)代表取締役。
社業は、福岡県警の交通信号分野の指定工事業者として、業界の会長職並びに電気工事業界でも、福岡県・全九州・全日本の役員を歴任し、2008年秋に黄綬褒章を受賞。
一方、社会奉仕活動として、ライオンズクラブに所属し、クラブ会長並びに地区・複合の各役委員を歴任し、現在福岡博多ライオンズクラブに所属する。
敬愛する古代史学者は、古田武彦氏、荒金卓也氏を挙げる。関連記事
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