果敢なる海外への挑戦で成長力を高めた「世界のHIRATA」(1)
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平田機工(株)
生産システムおよび産業用ロボットの製造・販売を手がけ、「世界の工場をつくる工場」と呼ばれる平田機工(株)。同社は、中興の祖である2代目社長・平田耕也(やすなり)氏のもと、松下電器産業やアメリカのGMといった一流企業を相手に積極果敢に営業を仕掛け、受注を勝ち取っていく。より高いハードルへの挑戦は技術力の向上にもつながり、世界で最も品質に厳しいトヨタから、その重要な生産ラインを任されるまでの企業になった。あえて厳しい環境に身を置くことで、成長力を高めたといえるだろう。
リヤカーからコンベヤへ
平田機工(株)は、創業者である平田恒一(つねいち)氏が1951年12月に設立した平田車輛工業(株)が始まり。恒一氏は、その父の代から、韓国で精米工場や製陶工場などの事業で成功を収めていたが、日本の敗戦により全財産を失って帰国。引き揚げ時、17歳であった息子の耕也氏(2代目社長)とともに裸一貫でリヤカー売りを始めたという。
59年12月から、耕也氏の発案でベルトコンベヤ、スラットコンベヤの製造を開始。その後、同社は、戦後復興と高度経済成長のなかで、世界企業となった松下電器産業(株)の発展とともに成長していく。しかしながら、地方の無名企業が、容易に大企業から受注できるわけがない。松下からの信頼を勝ち得たのは、熱意ある営業の成果であった。
64年5月、九州松下電器(株)への白黒テレビ組立ラインの納入を皮切りに工場内生産設備分野に参入する。同年7月、熊本県鹿本郡植木町(現・熊本市)に植木工場(現・熊本工場)、68年8月、松下のカラーテレビ生産にともない、栃木県宇都宮市に関東工場を設置し、関東進出をはたす。
今では世界標準となった、作業者の判断でパレットを止めたり、流したりできる『フリーフロー方式のコンベヤ』は同社が世界で初めて開発し、70年10月から製造を開始した。機械のスピードに人間が合わせる従来のコンベヤとは異なり、フリーフロー方式は不良品や不具合が大幅に減少するなど品質の向上に貢献。さまざまな業界から注文が寄せられるヒット商品となった。他方、産業用ロボットの開発にも着手。74年8月、平田機工商事(株)、大平コンベヤー(株)と合併し、現商号に変更。77年、耕也氏が社長に就任した。
GM受注への挑戦
国内受注で事業基盤を固めた同社は1980年代から海外進出に乗り出していく。その陣頭指揮をとったのは2代目社長の耕也氏。すでに松下電器産業と組んで家電業界でアメリカに進出していた同社が次にねらいを定めたのは、GM、フォード、クライスラーのいわゆる「ビッグスリー」。耕也氏は、このほか半導体でインテルから受注することも併せて、5年で1億ドルを受注することを目標とした『100ミリオン計画』を打ち上げた。
当時は、1970年代に輸出が急増した日本製自動車がアメリカ市場を席捲し、日米間の貿易摩擦が生まれていた。80年代では、日本企業側が輸出を自主規制し、アメリカでの現地生産に切り替えていく。そのようななかで同社は、苦境に立たされていたGMから生産ラインを受注するべく、積極的に仕掛けていった。
しかし、入札に参加して、どんなに低価格を提示しても受注ができない。高給で雇い入れたアメリカ人の営業マンからは、同社商品への信頼性が低いことが受注できない理由であるとされた。
(つづく)
【山下 康太】<COMPANY INFORMATION>
代 表:平田 雄一郎
所在地:熊本市北区植木町一木111
設 立:1951年12月
資本金:26億3,396万円
売上高:(17/3連結)805億4,236万円関連キーワード
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