失われた古代九州王朝の歴史(9)
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仮に、太宰府などの遺品を持出し、沖ノ島に集積したとすれば。博多湾からは喫水線の低い船で沖ノ島へ行き、沖ノ島からは大型の船で近畿大和へと考えたら、志賀の島で発見された「金印」の理由が理解できませんか。
また、沖ノ島は、なにゆえ古代より入島禁止だったのでしょうか、なにゆえ沖ノ島で神々が集う所としたのか、周りには相の島・筑前大島などの小島があります、集積物を保管するには、無人島でなければならなかったと考えられませんか。
相の島・筑前大島には、古墳が存在するように古代より海人族が居ました。沖ノ島は無人島です、岩だらけの小島です、ゆえに誰も近寄る事を禁止する。
戦利品の一時集積保管場所とするならば、納得できるのではないでしょうか。陸地からあまりにも遠すぎる点が疑問ですが。
繰り返しになりますが、今回の世界遺産の登録は、この島から出土した遺物が宗像大社への「ただの貢物」だとして処理しようとする、つまり古代九州王朝の存在説を遠のかせる仕業になりうると、憤慨・危惧しています。
徐福の言い伝えを守り、使者を中国へ送り続けたため、中国の歴史書に記載された古代九州王朝。西暦230年「魏志倭人伝」の卑弥呼が亡くなり、跡を継いだ壱与から使者の記述で途切れ、西暦600年「随書」までの約400年が空白の時代となります。
この間、倭国にはどんなできごとがあったのでしょうか。再度倭国の記述が始まるのが、「宋書」の倭奴国について。倭の五王の時代です。倭の五王とは、順番に讃・珍・済・興・最後が武という、5人の王(天皇)のことを指します。「宋書」には、この五王の事が記述されています。
この宋とは、中国の南北朝時代の国です。都は今の南京。西暦420年~479年のあいだ存続し、皇帝は劉氏です。
この書に、二番目の王「珍」が「特使節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍」を自称しますが、宋の文帝は「安東大将軍・倭国王」の称号は認める詔を発した記事があります。
次の「済」には前述の称号をすべて認め、跡を継いだ「興」にもまた同じ称号を授けます。
「興」の死後、弟の「武」が登場しますが、彼はこれらの官位が不足とします。先祖から自分の代まで国家を拡大したのは、自分たちがお仕えする「宋」の皇帝のためで、さらに「武」は高句麗との積年の抗争で父と兄を失った無念さ、今後とも皇帝の威のもとで忠誠を尽くすので「使特節都督・倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事・安東大将軍・倭国王」の称号を要求する長い上奏文で認定を求めてきたことが記述されています。(つづく)
【古代九州史家 黒木 善弘】<プロフィール>
黒木 善弘
1947年3月6日生まれ。九信電設(株)代表取締役。
社業は、福岡県警の交通信号分野の指定工事業者として、業界の会長職並びに電気工事業界でも、福岡県・全九州・全日本の役員を歴任し、2008年秋に黄綬褒章を受賞。
一方、社会奉仕活動として、ライオンズクラブに所属し、クラブ会長並びに地区・複合の各役委員を歴任し、現在福岡博多ライオンズクラブに所属する。
敬愛する古代史学者は、古田武彦氏、荒金卓也氏を挙げる。関連記事
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