2024年11月24日( 日 )

エンディングノートに記入する意味とは?(後)

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大さんのシニアリポート第63回

 葬儀アドバイザー岩田裕之さんは、「生半可な気持ちで家族葬を選択すると、あとでひどい目に遭います。故人を慕う気持ちは千差万別。葬儀に出席して手を合わせたいと強く思う友人知人にとって、それができないということは非常な不快感を生じさせます。
 つまり、家族葬であれなんであれ、自分が外されたという気持ちだけが残ります。家族葬の場合は、その線引きが難しいのです。そういう人は、電話もせずにいきなり自宅を訪ねてきますよ。
 家族葬をした後も、ひっきりなしにです。体が休まる気がしません。確実に友人知人、身内との関係が悪化します。『故人の希望だから』とエンディングノートや遺言状を示しても、理解していただけない場合のほうが多い。つまり、強い覚悟を持って、家族葬を実行する必要があります。友人関係にひびが入ることくらい先刻承知と思う覚悟が必要なのです」という。
 家族葬とひと口でいうが、実情は簡単には済まない。「ですから、家族葬より値段が張りますが、小さくてもいいから普通の葬式を出したほうが無難だといのは、こういう面倒なことを回避できるからです。
 葬儀は生きている人のプライドの問題。故人の気持ちは忖度されない場合が多いのです。家族葬を安易な気持ちで選択しない方がいい。葬儀は生きている人にとって、いっときの『修行の場』です。そう考えると気持ちも楽になります」と結んだ。
 故人の意思が尊重されないのは、人生の最後の場においても同様である。記入した本人にとって、エンディングノートは黄門さまのかざす印籠(絶対的なもの)と思う気持ちがあるものの、葬儀同様、必ずしも尊重されるとは限らない。私の周辺でおきた「事件」を紹介する。
 エンディングノートには、「終末医療」に関する項目もある。しかし、たとえ記入欄に自分の本意を書き記してもその通りに実行されるとは限らない。
友人の母親にがんが発見された。ステージ4の肺がん。「延命治療は避ける」という本人の意思を再確認した子どもたちは、母を在宅医療介護で看ることにした。
 数週間後、母親の容態が急変し、救急車で病院に搬送。そのまま入院した。母親の意識はもどらず、入院が長期化することが予想された。胃ろうがつくられ、高栄養の液体が鼻に入れられたチューブから胃に送られる。
家族に動揺が生じ始め、家族会議が開かれた。そこに母の妹(叔母)も参加した。
 その妹が、「息をしていて、体温も感じられる姉を見殺しにしたくない」と延命治療拒否に猛反対した。その剣幕に家族の誰もが反対できない。結局、植物状態で一年ちかく生き延び、病院のベッドで、主治医によって死亡が確認された。
 日本には現在、安楽死・尊厳死という概念は定着していない。「日本学術会議、死と医療特別委員会は、1994年5月、意見表明『尊厳死について』をまとめた。その結論として、患者の自己決定ないし治療拒否の意思を尊重して延命治療の中止、すなわち尊厳死を容認した」(2008年2月14日 日本学術会議臨床医学委員会終末医療分科会)とある。
 しかし1991年4月13日の「東海大学安楽死事件」(末期がんの患者に対し、家族からの強い要望を受けた医師が、患者に薬物を投与して死亡させた事件。判決は殺人罪)、1997年11月16日におきた「川崎協同病院事件」(同病院の医師が患者の気管内チューブを抜管後に筋弛緩剤を投与して死亡させたとして殺人罪に問われ、最高裁で有罪判決の事件)が、医師による殺人幇助事件として世間の耳目を集めて以降、医師が積極的に関わることを避けたことは否めない。
 2014年11月4日の「朝日新聞」に、衝撃的な記事が掲載された。「末期がんで余命半年と宣告され、安楽死を予告していた米国人女性のブリタニア・メイナードさん(29)が1日、予告通り自らの死を選んだ。米オレゴン州の自宅のベッドで家族に囲まれ、医者から処方された薬を飲んで、安らかに息を引き取ったという」。日本では安楽死も尊厳死も法制化されていない。安楽死が認められている国は、オランダ、スイス、ベルギー、ルクセンブルグ、アメリカの一部(ニューメキシコ、カリフォルニア、ワシントン、モンタナ、バーモント、そしてオレゴンの各州)のみ。
 日本尊厳死協会発行のカードに「延命治療拒否」と記入しても、エンディングノートや遺言状にその旨を記入しても、殺人罪や自殺幇助罪などに問われては、医者が尻込みするのも当然。
 「子どもに迷惑をかけたくない」「子どものためを思って」と「延命治療の拒否」「家族葬」を希望しても、医者からの拒否や、世間体を気にする子どもにとっては実に迷惑な話になりかねない。葬式代、お墓代、遺品整理代などとして幾ばくかの現金を残すのは自由だが、子どもたちは必ずしも親が思い描くようには使わない。
 それは親の思い込みにすぎないことを自覚し、残された人生を悔いなく生きたほうがいい。末期がんで医師により「余命数カ月」と宣告され、患者本人の同意のもと、家で最期を迎えることができる人間はごく稀だ。最後は生きている人に任せるしかない。それが一番の「子ども孝行」なのである。
 「子どもには迷惑をかけたくない」「終活(エンディングノート記入など)はなぜ無駄なのか」などについては、『もう親を捨てるしかない 介護・葬式・遺産は、要らない』(島田裕巳著 幻冬舎新書)に詳しい。

(つづく)

<プロフィール>
大山眞人(おおやま まひと)
1944年山形市生まれ。早大卒。出版社勤務ののち、ノンフィクション作家。主な著作に、『S病院老人病棟の仲間たち』『取締役宝くじ部長』(文藝春秋)『老いてこそ二人で生きたい』『夢のある「終の棲家」を作りたい』(大和書房)『退学者ゼロ高校 須郷昌徳の「これが教育たい!」』(河出書房新社)『克って勝つー田村亮子を育てた男』(自由現代社)『取締役総務部長 奈良坂龍平』(讀賣新聞社)『悪徳商法』(文春新書)『団地が死んでいく』(平凡社新書)『騙されたがる人たち』(近著・講談社)など。

 
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