【再録】積水ハウスの興亡史(1)
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「地面師詐欺」の余波を受け、会長と社長が解任動議を突きつけ合う泥沼の抗争劇を繰り広げる積水ハウス。かつてNet-IB NEWSでは、野口孫子氏の手になる同社の興亡を描いた連載記事を掲載した。積水ハウスへの注目が改めて集まっている今、2007年に掲載された記事を再録する(文中の人物、企業の業績などについてはすべて連載当時のもの)。
積水ハウスの歴史を語る前に、ルーツを語らねばならない。
積水ハウスの出身母体は積水化学である。その積水化学の出身母体は北部朝鮮において、4万2,000人の従業員を擁し、一大電力、化学コンビナートで生産活動していた会社、日本窒素肥料(株)であった。
日窒は当時東洋一の総合化学会社に発展し、日本の有力な財閥の1つになっていた。戦後、日窒は海外拠点をすべて失った。そのうえ、日窒コンツェルンは財閥解体され、延岡工場を旭化成とし、水俣工場を新日本窒素に分断される。
余談であるが、現在の住宅産業界では、旧日窒グループである積水ハウス、積水ハイム、へーベルハウスの3社で住宅のシェア50%を超えている。これは日窒の旺盛なパイオニア精神が今も脈々と流れている証でもある。
積水ハウスの母体である積水化学も、日窒コンツェルンから連綿と続く旺盛なパイオニア精神の産物である。終戦直後、朝鮮日窒から引き上げてきた、パイオニア精神に満ち溢れた、今も語り継がれている7人の侍の活躍によって、設立されたのだ。
社名に冠せられた、「積水」、という言葉は中国の古典、「孫子」の軍形第四編にある「勝者の人を戦わしむるは、積水を千仞の谷に決するが如きかたちなり」からとったもの。当時、朝鮮鴨緑江に世界的ダムを建設、蓄えた水を一気に落とし、そのエネルギーを電気に変え、一大コンビナートを建設、稼動させていたことから日窒では積水会、積水寮などと使われ、古くから親しまれ使われていた言葉なのだ。
1951年、チッソの常務だった上野次郎男(鹿児島南国殖産一族)が積水化学の社長に就任。プラスチック工業のパイオニアとして、急成長を遂げていた。田鍋(積水ハウスの事実上の創業者と言われている)が上野の要請で、チッソから積水化学に取締役として転入したのは55年であった。
田鍋はやがて、専務に昇格し、建材事業本部長を兼務し、活躍していた。そのころ、プラスチック業界も、競争が激しくなり、売上が増えても利益が上がらないという状況になっていた。そんなおり
「住宅をオールプラスチックでできないか」
と上野が提案した。日窒のパイオニア精神はここでも生きていたのだ。当時、屋根、柱、壁、床、をプラスチックで、作ってみたものの、強度、耐熱性で問題が多く、骨組は鉄骨で、部分部分を、プラスチックでつくり、試作品が完成した。60年のことだった。
【野口 孫子】
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