2024年11月22日( 金 )

積水ハウス、恒例のお家騒動 クーデターが勃発(3)

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会長と社長の権力抗争の遺伝子

 積水ハウスの内紛は珍しいことではない。積水ハウスOBの野口孫子氏がデータ・マックスのNetIB-NEWSに連載した『積水ハウスの興亡史』は、外部からはうかがい知ることができない内部情報が満載だ。「後継者の育成をやらない」ことが積水ハウスの伝統だという。そのためトップの座をめぐる内紛がお家芸になる。積水ハウスは、なんでこんなにお家騒動が多いのか不思議に思っていたが、合点がいった。

 積水ハウスは1960年に積水化学工業の住宅部門が分離して設立された。初代社長は積水化学工業社長の上野次郎男氏が兼務。2代社長で実質的な創業者の田鍋健氏と3代社長の奥井功氏も積水化学出身だ。1992年に奥井氏が社長に就任。奥井社長と営業部門を握る大橋弘会長の抗争が火を吹く。

〈大橋会長派と奥井社長派との確執、大橋、奧井の個人間の確執はひどくなる一方だった。全国の営業会議で幹部の集まる中、その満座の席でも奥井の短気の性格から、大橋に向かい、苛立ちの発言もするような状況で、2人の喧嘩はどちらが勝つのだろうかと各幹部はしらけながら見守るしかなかった。〉

 営業部門で唯一、奥井社長についたのが、中部営業本部長の和田勇氏である。大橋派糾弾の怪文書が乱れ飛んだ。それに合わせて、奧井社長は人事権を行使し、大橋派を一掃した。

 和田氏は1965年、関西学院大学法学部を卒業して積水ハウスに入った生え抜き。初任地は名古屋。入社2年目にして社内トップの営業成績を上げ頭角を現わした。以来、中部地区が和田氏の本拠地となる。
奥井社長は退任の時期を迎える。後継候補は和田勇氏と杉村和俊氏の両専務の争いになった。和田氏には、悪い話が多かった。中部営業本部長時代から続く、仲介業者2社との不適切な関係を指摘する告発もあった。

〈奥井も確証を取るため、中部名古屋での噂の真偽を本社幹部に調査させたが、和田体制になることが濃厚な時期なのに、自分の将来を賭けてまで正確に調査するわけもなく、噂は噂に過ぎないと奥井に報告された。(中略)中部では和田批判は法度、和田のいうことはすべてだという風潮があり、反対意見をいえば左遷された。中部の和田天皇とも言われていた。〉

 親会社の積水化学は、杉村専務に期待していた。奥井社長と大橋会長が壮絶バトルを繰り広げたとき、杉村氏は大橋会長と親しかったため、奧井社長は迷っていた。

 そうこうするうちに、1997年11月、日本経済新聞に「来年5月、和田社長へ」と人事がリークされた。〈この新聞辞令で、一気に和田社長という、既成事実がつくり上げられた〉。誰がリークしたか、内部の人間なら誰でもわかる。和田氏は1998年5月、4代目社長に就任した。初の生え抜き社長だ。

〈奥井は「和田にはいろいろあるけど、わしが目の黒いうちは絶対変な事をさせない」と言っていたと噂では聞いている。奥井のこの思い上がりが、間違いであったことを思い知ることとなる。〉

 程なく和田氏対奥井氏の暗闘が始まり、お決まりの怪文書が出回り、和田氏が勝利した。奧井氏を追い落とした和田氏は独裁体制を築いた。

(つづく)
【森村 和男】

 
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