巨大組織ダイエーを継承したイオン、長年の夢『グローバル10』は実現するか?(前)
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「グローバル10」構想を掲げ、世界の小売業トップ10入りを目指すイオン。かつてライバル関係にあったダイエーを傘下に置き4年が経過した。その間、イオンを含めた小売業はどのように進化衰退していったのだろうか。
表はチェーンストア協会データによる加盟企業の数値推移である。昭和40年代(1965~)に産声を上げた日本型大型店は文字通り日本の消費生活を一変させる。多くのお客がそこに押しかけ、半ば奪い合うようにモノを買った。しかし、それは今や昔の話だ。表から見てとれるように、店舗数こそわずかに増えているが、ほかの数値は停滞している。1店舗あたりの年間売上は13億。1m2あたりの売上高は約50万円。40年前に比べて店舗売り上げで80%、坪あたり売上に至っては62%である。これでは販売による利益は手にできない。表が物語るのはまさにリアル店舗時代の終わりの始まりだ。
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日本型大型店で特筆すべき企業は何と言ってもダイエーである。悲惨な戦争体験を経て小売の世界に躍り出た、その創業者は、体験した飢餓の記憶を振り払うように大型店をつくり、そこに大量のモノを集め、モノ不足の世の中に届けた。
その拡大意欲は限りなく、国内同業のM&Aだけでなく、最盛期には海外の小売業や異業種にも手を伸ばした。そのダイエーが事業拡大の資金調達の手段としたのが土地利用だ。時代は地価高騰全盛期、出店用の土地を手当てすると、その周辺の土地はみるみる値を上げた。それを利用して、店舗用地を広めに取得し、不要な部分を転売することで店舗建設費を捻出した。もちろん、ほかの企業もそれに似た手法で店舗拡大を続けた。流れが変わる時
「ここは乾燥野菜の売り場やなあ」競合するジャスコ(現・イオン)の青果売り場を見てダイエーの総帥だった中内功はそうつぶやいたという。そのジャスコはダイエーとの戦いに敗れ、都市の中心部から郊外へと追いやられていく。都心部からルーラルへと出店戦略を変えざるを得なかったジャスコの郊外型SCの象徴が1981年、岩手県の小さな町に出店した「江釣子ショッピングセンター」(以下、江釣子SC)だ。
ジャスコと50の専門店で人口8,000人余りの村に出店した時、ダイエーを始め、同業者のほとんどが『キツネ、タヌキを相手に商売するつもりなのか』とその出店戦略を揶揄した。しかし、時代はモータリゼーションと高速道路の時代を迎えていた。それから30年(1ジェネレーション)いまや、郊外型大型店は業界の常識になった。そして、スクラップ&ビルドが代名詞のイオンのなかで、かの江釣子SCは今でも生き残っている。豊かな市場の都会から、人口10,000人以下のローカルへの出店。それを決断したイオン総帥・岡田卓也の勇気と悩みを測るのは容易ではない。そしてそれは成功し、その後のイオングループの拡大につながる。イオンの戦略はとどまるところを知らない統合と拡大だ。1980年代半ばの日本のベスト10小売業のなかで今も単独で残っているのはイトーヨーカ堂とイオンなど、ごくわずかだ。ダイエー、ニチイ、壽屋など少なくない企業が時の流れのなかでジャスコの傘下となり、その名前を「イオン」に変えている。これは戦国の覇権事情とよく似ている。早く生まれ、成功した信長や秀吉を後追いして天下を取ったのは家康だった。遅れてきた青年に勝利の女神がほほ笑んだのである。
(つづく)
<プロフィール>
神戸 彲(かんべ・みずち)
1947年、宮崎県生まれ。74年寿屋入社、えじまや社長、ハロー専務などを経て、2003年ハローデイに入社。取締役、常務を経て、09年に同社を退社。10年1月に(株)ハイマートの顧問に就任し、同5月に代表取締役社長に就任。流通コンサルタント業「スーパーマーケットプランニング未来」の代表を経て、現在は流通アナリスト。関連記事
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