2024年12月27日( 金 )

鹿児島の歴史(6) 重豪と調所

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 18代家久の後、光久‐綱貴‐吉貴‐継豊‐宗信‐重年‐重豪(しげひで)‐斉宣‐斉興‐斉彬、そして幕末の29代忠義と続きます。俗に「島津にバカ殿なし」といわれるほど、優秀な人物が続きますが、名前は時の将軍から一字もらっているためおおよそ時代がわかります。忠義も江戸時代は茂久(14代将軍家茂から一字)です。このなかでとくに有名なのが、25代重豪と28代斉彬です。

 重豪の父、重年の時代には、木曽川の治水工事を幕府から命じられています。1754~55年にかけて、家老・平田靭負(ゆきえ)以下、約1,000人が行きます。難工事のため費用も10数万両とみられていましたが、約40万両かかり、犠牲者(自害・病死など)も84名にのぼります。姉妹県盟約を結んでいますが、現在も岐阜県の感謝の気持ちは強いです。

 重豪(1745~1833)は、父重年の死去にともない、1755年に藩主となります。成長してからは「蘭癖大名」ともいわれ、積極的な開化政策を次々と実施します。城下に藩校の造士館や演武館、医学院・明時館(天文館)をつくり、薬園も設置しました。商業発展のために他領との往来も活発にしました。子どもにも14男12女と恵まれ、三女茂姫は11代将軍家斉の御台所(広台院)に、男子も他家の藩主(奥平昌高、黒田長薄、南部信順)になります。とくに、黒田長薄は28代斉彬と年も近く(大叔父一大甥の関係でありながら、斉彬が2歳年上です)、なかなか藩主になれなかった斉彬の後援もしています。在位50年(1787~1837)の将軍の岳父ということで、重豪は大きな勢力をもちました。
 このような重豪の治政でしたが、1830年ごろには、藩債は金500万両にもなっていました。当時の大名貸しの利息は年7分ですから、利子だけで35万両になります。藩の年間収入は17万両で、全額を返済に充てても利子の半分も払えない状態でした。

 1827年、調所広郷(ずしょひろさと)が財政改革の担当者になります。通常のやり方で成功するはずもなく、奄美大島・喜界島・徳之島の砂糖販売、藩債の250年賦償還法(利子をつけず1年間に2万両ずつ返済すること)の確立、密貿易など、大胆な改革を行いました。たとえば、砂糖販売は、藩の専売で、島内の金銭流通も禁止したため、生活必需品も藩の販売でした。黒糖1斤=米3合でしたが、大坂では黒糖1斤=米1升2合でしたので、島民は1/4しかもらえなかったことになります。 1830年代10年間の年平均大坂出荷額は、米6,000両に対し、砂糖は23万5,000両にもなっています。最終的には、返済したうえ、藩庫に50万両を蓄えるほどになりました。さらに、調所は、城下の諸施設の修繕・改築、肥後の石工・岩永三五郎を招いて、甲突川・稲荷川の石橋設置、堤防修繕・鹿児島港の整備もしました。これらの事業には約200万両かかりましたが、洋式砲術の採用と、これにともなう軍役方の設置などの軍制改革も行っています。

(つづく)

<プロフィール>
麓 純雄(ふもと・すみお)
1957年生。鹿児島大学教育学部卒、兵庫教育大学大学院修士課程社会系コース修了。元公立小学校長。著書に『奄美の歴史入門』(2011)『谷山の歴史入門』(2014)『鹿児島市の歴史入門』(2016 以上、南方新社)。監修・共著に『都道府県別日本の地理データマップ〈第3版〉九州・沖縄地方7』(2017 小峰書店)。ほか「たけしの新世界七不思議大百科 古代文明ミステリー」(テレビ東京 2017.1.13放送)で、谷山の秀頼伝説の解説などに携わる。

 
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