鹿児島の歴史(8) 幕末の経済・琉球と奄美
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前回の記述内容から、明治維新に関して、薩摩藩に莫大な資金が必要だったことは容易にわかると思います。貿易にもさらに力を入れますが、ここでは琉球通宝と砂糖、維新後の琉球と奄美にふれておきます。
琉球通宝について。鋳銭事業も斉彬の遺策です。幕府は許可したくはありませんでしたが、「琉球貿易のみに使用する」ということで、認可されます。琉球通宝は天保通宝とまったく同じ大きさで、文字のみ「天保」が「琉球」でした。 1863年5月には、琉球通宝を約90万枚(約1万2500両)作っていますが、同年9~12月には、約19万1000両分作っています。後者は天保通宝を密造したもので、翌年以降も続きます。この事業は、小松帯刀と大久保利通が中心となったといわれています。砂糖について。調所の財政改革でもふれましたが、砂糖の重要性はさらに増します。他藩でも砂糖を生産するようになり、薩摩藩が利益を独占することができなくなったことも関係して、厳しさも増しました。奄美大島では、1848年には生産量約558万斤でしたが、1852年には約629万斤、さらに1860年代には900万斤台まで増加しています。まさに「しばれるだけしぼった」という感じです。初代鹿児島県令(知事)の大山綱良は、「奄美は一等の産物を有しながら、一等の貧民に属す」と述べています。
ちょっと話が逸れそうですが、「西郷どん」の奄美編で違和感があったのが、島出身の 「島役人」が出てこないことです。悪代官が出てきますが、薩摩からの派遣役人は奄美大島で代官などわずか8人です。この8人で島を治めたり抵抗を抑えたりすることはできません。実際は島役人が中心です。島役人の最高位である与人(よひと)が奄美全体で28人、ほかの役人は大島だけで140人以上、さらに下級の村役人は大島だけで728人です。1871年、廃藩置県が行われます。薩摩藩は鹿児島県となり、琉球王国は鹿児島県管轄です。翌1872年には、琉球藩設置(外務省管轄)ですが、尚泰王は、国・県に対し、奄美群島の返還要求をしています。1874年には、「大島県」構想がありました。明治においても砂糖は輸入第2位の重要産物でしたが、国は白由販売、県は専売の考えでした。このころの鹿児島は「半ば独立国の如し」といわれるぐらいでしたので、鹿児島と奄美を分離しようとしたのです。同12年に沖縄県設置(琉球処分)で、奄美は鹿児島県大島郡となります。政治的にいえば、沖縄と奄美は、この時点で「日本国」の一部となったのです。
なお、沖縄については、その後も日本と清で帰属問題が続きます。分島案もあり、清が承認しませんでした(日本は承認)が、これが承認されていれば、宮古・石垣などの八重山諸島は中国領でした。のちの日清戦争で台湾が日本の植民地となり、決着したかたちです。
(つづく)
<プロフィール>
麓 純雄(ふもと・すみお)
1957年生。鹿児島大学教育学部卒、兵庫教育大学大学院修士課程社会系コース修了。元公立小学校長。著書に『奄美の歴史入門』(2011)『谷山の歴史入門』(2014)『鹿児島市の歴史入門』(2016 以上、南方新社)。監修・共著に『都道府県別日本の地理データマップ〈第3版〉九州・沖縄地方7』(2017 小峰書店)。ほか「たけしの新世界七不思議大百科 古代文明ミステリー」(テレビ東京 2017.1.13放送)で、谷山の秀頼伝説の解説などに携わる。関連キーワード
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