2024年12月23日( 月 )

中内ダイエーなくして、福岡がここまで発展することはなかった(7)~アジアの拠点都市づくりとドーム球場

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アジアの拠点都市を目指す福岡市

 進藤一馬氏の後を継いだ桑原敬一市長は、なぜ、ダイエーを福岡に誘致したのか――。

 1988(昭和63)年9月に打ち出した「『福岡市総合計画』~福岡市基本構想・第6次福岡基本計画」から、読み解いてみたい。

 これは、21世紀に向けた都市づくりを目指して策定されたものだが、計画策定の趣旨のなかで、「福岡市は、中央官庁の出先機関や企業の支社、支店の集積などを中心として発展してきた都市であるが、新たな潮流のなかでは中継的性格の強い本市の中枢機能の弱まりが懸念され、本市独自の新たな都市機能を付加していき、また、福岡市の個性を創造し、情報発信機能を高めていく必要がある。さらに、福岡市が、国際都市とりわけアジアのなかで、また、日本、九州のなかで、はたすべき役割を明確にしていかなければならない」と訴えている。

 また、21世紀に向けての基本課題として、「さまざまな分野でのアジア諸国を中心とした交流を深め、アジアの拠点都市としての諸機能の整備・創造などに努め、アジアの平和と発展に貢献していかなければならない」とも指摘している。
 注目すべきは、福岡のアジアのなかの国際都市としての位置づけを明確に打ち出そうとしていることだ。

プロ野球と球場誘致を明記

 同計画ではさらに、「国内外のスポーツ競技会やプロスポーツを誘致、開催し、市民のスポーツに対する認識と実践への動議づけに努めるとともに、国際化時代に対応し、姉妹都市や友好都市などとの国際スポーツ交流を推進する。また、市民と一体となってプロ野球球団の誘致に努めるとともに、球場の整備充実を図る」と、球団誘致と球場の整備も掲げている。ほかにも、アジアの拠点づくりに向けたさまざまな施策を打ち出している。

 日本全体がバブル景気に浮かれている時期に、桑原市長は、福岡がアジアに開かれた貿易都市として太古よりその機能をはたしてきた歴史とアジアに対する福岡の地理的優位性から、アジア各都市との友好関係の構築やアジアのなかでの拠点都市づくりに目を向けていたのだ。桑原市長が掲げる政策実現には、プロ野球とアジアの拠点にふさわしい球場が欠かせない物として位置付けられていたのであろう。

 今日、福岡はアジアのゲートウェイとして、アジアから多くの観光客やビジネスパーソンが訪れる都市として、国内での地位を築き上げた。その礎は、桑原市政時代に築かれたものだといえるだろう。

アジアを意識したさまざまな施策を実行

 桑原市長は、アジアの拠点都市としての地位を確立するために、さまざまな施策を打ち出した。その最たるものが、1989(平成元)年、ダイエーがホークスを買収したこの年に開催した「アジア太平洋博覧会(通称:よかトピア)」である。
 市制施行100周年を記念して、アジア、太平洋地域をテーマとして開催したもので、国内から1,056企業・団体が、国外からは37カ国・地域と2国際機関が出展参加した。パビリオンも国内33館、外国から10館が設置された。3月から9月までの半年間に823万人が会場を訪れ、国内外に福岡の存在を強烈に印象づけた。

 アジア太平洋博覧会のほか、福岡アジア文化賞(90年)の創設、(財)福岡都市科学研究所(88年、現在の(公財)福岡アジア都市研究所)や福岡アジア美術館(99年)の開設、福岡アジア映画祭(87年)開催など、アジアの拠点都市づくりに向けたさまざまな施策を実行した。

 桑原市長は、アジアの拠点都市としての福岡市の地位を確固たるものとするために、求められる機能の充実や環境整備を積極的に推進。このことが、福岡のブランド力を高める結果となり、国内だけでなく、海外からも多くの人を集めるようになった。
 そして、桑原市長が描いたアジアの拠点都市として、アジアの各都市とのつながりも強めていく。89年3月21日にはマレーシアのイポー市と姉妹都市を、10月24日には釜山広域市と行政交流都市締結をはたした。翌90年には、アジア太平洋博覧会で生まれた交流の輪をさらに広げようという精神を受け継ぎ、「福岡アジアマンス」もスタートした。

“アジアを知る”から“アジアとつくる”

 「福岡アジアマンス」では、毎年9月を中心に、福岡市内でアジアの文化・芸術・学術などを中心とした「アジア太平洋フェスティバル」や「アジアフォーカス・福岡国際映画祭」「福岡アジア文化賞」など、多彩な事業を展開してきた。20年余にわたって“アジアを知ってもらう”ことをコンセプトに開催してきた「福岡アジアマンス」は、2013年からはアジアとの関係をさらに発展させて“アジアとつくる”ことを新たなコンセプトに、「アジアンパーティ」として生まれ変わり、既存の事業をさらに充実させながら、新たに「The Creators」「国際シンポジウム」などを開催。アジアのヒト、モノ、情報が集う場としての機能をはたしている。今では、アジアの人々や福岡市民が気軽に参加できるアジアの祭典として定着している。

 95年には、“学生のためのオリンピック”といわれる「第18回夏季ユニバーシアード」を開催。この大会の開・閉会式は福岡ドームで開催され、注目を集めた。
 アジアの拠点都市としては、物流などアジアとの航路の開発も欠かせない。91年、JR九州高速船(株)の「ビートル2世」が博多-釜山間との航路を開設したことにより、人々の往来が活発化し、2000年5月には乗船人員が100万人を突破。14年2月には500万人を突破した。

アジアとの地理的優位性を生かす

 古くから福岡(博多)は、朝鮮半島や中国などアジアとのモノや人の交流の玄関口として栄えてきた。そのため時の権力者は、博多が生み出す富を求めて覇権を争い、博多のまちは何度も戦渦に巻き込まれ、幾度となく焼かれるという悲運を味わった歴史がある。しかし、徳川幕府が鎖国政策を敷き、長崎の出島に海外との窓口が移ると、博多の地理的な魅力は低下していった。

 近年になって、韓国の経済発展や世界一の人口を背景に急速な経済成長を遂げた中国などアジア諸国の台頭が、アジアの玄関口としての福岡の地理的優位性を、再び引き立てることになった。

 桑原市長は、こうした時代の流れを自身の政策に反映させ、アジアの拠点都市としての福岡の役割強化と都市づくりを推し進めようとしていたと思われる。現在の福岡の発展は、アジアに目を向けた桑原市長が思い描いたものが、かたちとして表れてきた結果といえるだろう。

総投資額2,600億円の「ツインドーム計画」

 桑原・中内会談でダイエーが福岡に球団をもってくることが決まり、89年7月、ダイエーは(株)福岡ダイエー・リアル・エステート(FDRE)を設立。そして、市内中央区地行浜に大規模な商業施設の開発を行う計画を発表した。
 計画は、ダイエーホークスの新たな本拠地として使用する「スポーツドーム」と、屋内遊園地などを有する「アミューズメントドーム」、さらに2つのドームの間に高層のリゾートホテルを建設するという一大プロジェクトだった。しかも、用地を購入するコンペで、ダイエーは球団誘致と開閉式ドームの建設を打ち出していた。総工費2,600億円もの巨大プロジェクトである。「ツインドームシティ計画」と呼ばれたダイエーの計画は、日本中を驚かせた。

用地価格は301億7,000万円

 ダイエーは、「ツインドームシティ計画」を実現する用地を、福岡市が所有する博多湾埋め立て地「シーサイドももち」に購入する必要があった。89年3月26日、福岡市本議会は、「福岡ツインドームシティ」計画用地として、シーサイドももちのうち16.9haを、ダイエー側に総額約301億7,000万円で売却する案を可決した。ダイエー側からの用地購入に対する要請は前年11月であり、かなり早いスピードで可決されたことになる。

 92年の完成を目指して建設は進められるが、この時点では、アミューズメントドームでの物販内容など、具体的な内容が不明だとして、地元の小売業などから強い反発も起きた。

 「シーサイドももち」は、都心に近い職住接近の住宅地を市民に提供するために海を埋め立てて86年に完成したもので、138haの敷地に住宅や学校、文化施設、公園、IT関連の集積ゾーンなどをつくる計画だった。ところが、第2次石油ショックで住宅需要が落ち込むなどして状況が一変。整備した土地も思うように売れなくなり、市は計画の見直しを迫られていた。

 そこに飛び込んできたのが、「ツインドームシティ計画」である。
 ダイエーは当初、20haの分譲を市に申し入れた。利用計画の大まかな線引きを委託されていた市長の私的諮問機関「シーサイドももち土地利用検討委員会」(委員長、光吉健次・九大名誉教授)は会議を開き、市が計画を説明。ダイエーの希望をほぼ満たす「ゾーニング」を決定し、事実上の受け入れを決めた。これに基づき、市は「ツインドームシティ」用地16.9haを盛り込んだ、新しい土地利用計画を打ち出した。
 この結果、小学校は3校から1校に、中学校は2校から1校に、住宅は当初の半分以下の3,000戸に減らされることになった。

 市議会のスピード可決に対する不満もあったが、ダイエーに用地を売ることで、当初、シーサイドももちの用地活用計画にあった住宅用地や小・中学校などの用地が削減されたことに対する不安が高まり、地域住民などからの反対も起きたようだ。

地元経済界との溝

 地元財界の反発も強かった。「流通業界トップのダイエーが、シーサイドももちの開発を足がかりに、九州での勢力をさらに強めるのではないか」――という警戒心もあった。もともと、九州の経済界は関西資本と反りが合わないという声もあるが、それだけではなかろう。

 やはり、外から来る巨大資本に対して、危機感を覚えた経営者がいたのは事実だろう。ダイエーはそれまでにも、71年6月に、当時としては国内最大級の規模を誇るショッパーズプラザ福岡(ダイエー福岡店)を天神に開業し、大きな話題を呼んだ。また、81年に西日本でスーパーをチェーン展開していたユニードをグループ化し、60店舗を傘下に収めた。さらに福岡市博多区、現在のキャナルシティ福岡の再開発計画も進めるなど、九州で急速に勢力拡大を図っていたのだ。地元経済界としては、危機感を覚えるのは自然のことであろう。
 しかも、ダイエーが取得した土地は、実はセゾングループが開発を予定していた。それが土壇場でひっくり返り、ダイエーが獲得。セゾングループでは、すでに設計図を引き、模型まで作成していたようであるから、関係者の驚きも大きかったに違いない。用地購入企業がダイエーに決まり、西武の開発はなくなった。

商店街も警戒心を抱く

 福岡での球団誘致活動はもともと、福岡JCが旗振り役となって地元財界にも働きかけ、協力を得ながら実現に向けて動いていた。それが突然、中内社長と桑原市長のトップ会談で、ホークスが福岡に来ることになった。福岡JCとしては寝耳に水の展開ではあったが、福岡に球団を誘致するという目的自体は達することができたともいえよう。
 だが、地元財界としては、「突然ハシゴを外された」という思いが残ったのではなかろうか。しかも、我らが西鉄ライオンズのライバル、ホークスである。昨日までの敵を、今日からは味方と思って仲良くやってくれと言われたようなものだ。人の感情は、理屈で割り切れるほど単純ではない。

 こうしたボタンの掛け違いとも思われることもあり、ダイエーと地元財界との間には溝が生まれた。中内氏が、地元からの理解を得ようと財界のトップを訪問しても、会うことができず、名刺だけを置いて帰ることも少なくなかった。明らかに、拒絶されていることがわかる。

 地元商店街などの反発も強かった。計画では、アミューズメントドームと高層ホテルの物販に充てる面積は、15万8,000m2から21万1,000m2とされた。当時の福岡市内の5つのデパートの売場面積の合計は11万1,300m2である。ツインドームシティ計画がいかに大きな衝撃を与えたかわかる。

 危機感を募らせた唐人町の「唐人町一丁目北地区市街地再開発準備組合」は、89年12月21日、商店街のアーケードの北側に1~3階に店舗を入れ、4~12階を約400戸が入居する住居エリアとする12階建て、延べ床面積2万4,000m2のビル建設を計画するなどの対抗策を講じた。

 そうした溝は、地元の野球ファンにも影響を与えたと思われる。

 当時をよく知る人は、「平和台球場にホークスの試合を見に行くと、まだブルーのユニフォームを着た観客が圧倒的に多かった」と語る。ブルーのユニフォームとは、ライオンズのもの。地元ファンも、すぐにはホークスを受け入れることができない人が多かったということだろう。

 しかし、徐々にダイエーとホークスは、地元財界や商店街、ファンに受け入れられるようになっていった。

地場3行による融資が実現

 ダイエーに対する地元財界の態度が軟化し始めたのは、89年8月に地元銀行が、ツインドームシティの用地購入費に対して6割にあたる225億円をダイエーグループのデベロッパーであるダイエー・リアル・エステートに融資する方針を固めたころからではないかと思われる。これは、福岡銀行、西日本銀行、福岡シティ銀行の地場3行が、75億円ずつ融資するというものだ。当然、ダイエーの取引銀行なども融資に参加するのだが、福岡経済に大きな影響力をもつ地場3行が融資を行うという情報は、ダイエーと地元経済界との雪解けを印象付けるものとなった。

 こうして、同年8月31日には、福岡市とダイエーの売却価格交渉もまとまった。売却価格は3.3m2あたり63万3,600円、約6haのスポーツドーム用地については、20%減額の50万6,880円で、払い下げ用地16.9haで総額約301億円となった。

 福岡市がスポーツドーム用地に対して20%の減額措置をとったのは、「市民球団として誘致した福岡ダイエーホークスのフランチャイズ球場」「施設自体の収益性が低い」「公共利用についてダイエー側が配慮を約束した」――などの理由からである。

 建設用地が決まり、地元銀行の融資も受け、計画はいよいよ本格的に動き出していく。そうなると、これだけの巨大プロジェクトである。プロジェクトに関連するさまざまな事業への経済効果に、自然と注目が集まっていった。

(つづく)
【宇野 秀史】

 
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