北洋建設総帥・脇山章治氏の次なる戦略は?(1)
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九州みらい建設グループの旗上げの意味は
(株)北洋建設(本社:福岡市中央区)は、ゼネコン業界においては上村建設に次ぐナンバー2の業者であることは承知されていることである。今回、北洋建設を中心とした(株)九州みらい建設グループを旗上げした(案内は別紙添付)。
今までの理知的合理的な思考の持ち主であるとみられていた脇山章治総帥というイメージから言えば、理解不能のグループ旗上げである。この背景に対して、総力を尽くし取材した。20回の連載で報告したい。この取材を通じて、やはり福岡建設業界では卓越した経営者であることを再認識した。業界随一の戦略家脇山章治氏
1952年3月、章治氏の実父・梅治氏が、脇山建設として事業をスタートした。先代はNTT(当時の日本電信電話公社)などからの受注をして、手堅い経営を行ってきた。98年2月に章治氏に社長のポストを譲る時点までは、地場中堅ゼネコンの域で推移していた。たしかに章治氏は98年に社長に就任したが、実父・梅治氏の老齢化が進んでいたから、実質的には90年頃からは経営の采配を握っていた。この時期から、北洋建設躍進の基盤を築いたようだ。
『北洋建設が上村建設に追随する勢力』との認知を受けたのは、10年前の2005年である。98年2月に章治氏が社長に就任してから、わずか7年の期間で大躍進ができるわけがない。2代目を継承する前から、大発展の布石を打っていたのである。その布石は後で紹介するとして、筆者は脇山章治氏を『建設業界の随一の戦略家』と称賛してきた。戦略家たる所以は、『業界の請負業をいかに脱皮して仕事を創出していくか』を具現化したからである。
まず、同氏のプロフィールから紹介する。1949年10月生まれの65歳だ。福岡を離れて、慶応高校、慶応大学に進む。73年に住友林業に入社し、シアトル支店に勤務する。そして83年に34歳で北洋建設に入社するのである。
なぜ、あらためて周知の経歴を述べたのか?
(1)商社マンとして視野の広さを持つ、(2)合理的な思考を叩き込まれる、(3)シアトル・アメリカでの英会話を駆使してアメリカ思考を会得する――。こうして34歳まで渡り歩いてきた章治氏の世界・価値観と、福岡での建設業界の仕来たり・慣習因習とが、同氏の内面で激突したのである。同氏の回顧した話が印象に残る。北洋建設に入社した83(昭和58)年当時は、まだ松本組=松本英一氏が絶頂のときであった。参議院議員松本英一先生が東京から飛行機で帰福される。業界団体あげて出迎えするのだ。ある建設会社の役員は、出迎えをしていない業者をチェックしていたそうである。まだまだ建設業界団体が、結束力を如何なく発揮していた良き時代であった。脇山総帥がこの渦中で目撃し直感したことは、『建設業界には、まだこんな前時代的な遺物が残っていたのか。30年昔に戻っているのではないか』ということであった。
『建設業界の談合的慣習のなかではとてもじゃないが、精神的な安定を保てない』と断を下したようだ。『業界との付き合いとは関係ないところで、どうにかして自力で仕事を取っていく受注戦略の構築が必要である』ことを痛感した。理念としての『脱請負業』を突破する路線の確定に急いだ。7~8年は手探りの状態が続いたが、脇山総帥の具体策が明確になってきたのが、昭和から平成に時代が転換する頃である。平成に突入すると、実質的な経営采配が託されるようになる。『できるだけ目立たないところで仕事を取ろう』を座右の銘として、(1)住友林業住宅部からの受注、(2)NTTからの受注、(3)マンションの下請け工事はしないが改修工事はすること――への傾倒の戦略展開で功を奏したのである。
結果として2005年あたりから急伸劇が顕著になり、『ウエムラに次ぐホクヨウ』と評価が定まった。
勢いの流れを見定めた章治氏は、08年6月に社長職を実弟の亨治氏に譲ったのである。さらに13年11月には、章治氏の長男・彰太氏を副社長に就任させて、4代目誕生に向けた体制固めが完了したのである。(つづく)
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