2024年11月05日( 火 )

6,000年の悠久の地~ギリシャ・クレタ島いかに(番外編)

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何故、人間は本能の如く世界をめぐるか

greece3 前回、ドーハ空港を夜中の0時から2時の間でも無数の人が群がって騒然とした状況をリポートした。ドーハに降りる人たちは数少ない。90%以上の旅行者たちは、この空港を起点としたトランジットのお客たちである。アメリカへ飛ぶ人もいよう。日本に向かっている感じの旅行者も見かける。
 人間の一部には、ある程度の衣食住が満足できるようになると、本能の如く世界を駆けめぐる層の存在を確認できる。ただし、その動機は筆者には多様でわからない。

 筆者の場合は、年に6回は海外に行くようにしている。日本国内もかなり歩いているつもりだ。『どうして回るのか?』という設問に対して、『その場所に立って、曰くある歴史を紐解いてみたい』と回答するようにしている。司馬遼太郎氏は、日本を隅々徘徊した。結果として、名作『この国のかたち』を出版したのである。小説家としても傑出した存在であったが、歴史公証家としても特筆すべき資料を残している。別に彼と競うつもりはないが(競えるはずがないが――)、訪問する場所、場所で、その土地に絡む歴史を思い浮かべながら思索に浸ることが生きがいなのである。

 2月に、友人10名を引き連れて北京へ『王宮料理を食べる』だけの目的で訪問した。4年前も非常に好評であったから企画したのだ。本当の狙いは、友人が営んでいる中国旅行会社の内容が苦しくて、少しでも助けになればとの一助であった。当然、同伴者のためには、故宮博物院の見学は外すわけにはいかない。こちらはもう6回訪問しているから、大方のことは覚えている。そこで今回はあらためて、清の悪女=西太后のことを調べてみた。彼女は決して悪女ではない。清王朝を守るために、必死で50年間戦ったのだ。

 基本テキストは、大ヒットになった『ワイルド・スワン』の著者・ユン・チアン(Jung Chang)の『西太后秘録』であった。1842年、アヘン戦争においてイギリスから清国は叩き潰された。清王朝は崩壊寸前に立たされたのである。西太后の実名は慈禧だ。非常事態のときに、1850年代初めに皇帝・咸豊帝の側室になった。
 皇帝は1861年に死す。ここから西太后の地獄の苦労が始まった。清王朝のために尽くしてきたが、1900年代になると人民運動に乗り越えられた。『少数民族・清王朝から我々・漢民族の国家を建設しよう』というスローガンの下に、清王朝は倒された。彼女の50年間の必死の戦いは、あえなく幕切れとなったのである。

 こういう時代背景を頭に叩き込んで故宮博物院を歩くと、新たな気づきが増える。『あー、この部屋で息子・同治帝が息を引き取ったか。西太后はどういう思いで息子の死に立ち会ったのだろうか』と回顧に耽れる。
 ここで説明を加えよう。同治帝は1875年に19歳の若さで急逝した。この悲報に直面した西太剛は、またまた悲壮な覚悟をしたのであろう。「あー、清王朝の立て直しが振り出しに戻った。やるしかない」と誓ったのである。この西太后は中国王朝の歴史上、女性情勢政治家として3本の指に入る女傑とみる。

クレタ島6,000年の歴史を深化させてくれた、塩野七生女史

greece6 さて話をクレタ島・6,000年のテーマに戻ろう!!
 クレタ島に飛ぶ前に、予備知識を叩き込む必要があった。そこで、いろいろな書物を漁った。そのなかで一番勉強になったのは、塩野七生女史の『ギリシア人の物語Ⅰ 民主化のはじまり』である。同女史は『ローマ人の物語』で大ベストセラー小説家としての名声を確立させた。今回の『ギリシャ人の物語』の発刊に当たって、下記のように触れている。「『ローマ人の物語』を書き終えて考えるに、ローマ帝国が忽然と登場したわけではない。影響を与えた存在がある。それはギリシャだ。ギリシャを知らずしてローマは理解できない」と。このシリーズは、4巻発刊予定である。

 ギリシャは、3,000年前から市民国家の形成がなされ始めたらしい。そして2,500年前には、世界で最初の市民国家を樹立した。その黄金時代は300年間続いたが、紀元前200年前からローマの侵略を受け、国家として衰亡の道をたどり始めて、最後には滅ばされた。ギリシャという市民国家とは、アテネ・スパルタ・クレタという民主都市の連合体を指す。単独のギリシャ国家という組織はなかった。クレタ島に立ち、「2,500年前には地中海に浮かぶクレタ島にも、ギリシャ市民国家の一翼を担う都市クレタが存在していたのか」と想い描くと、楽しくなる。
 「ここ掘れ!!ワンワン」ではないが、クレタ島の至るところに神殿跡地がわんさかある。ある有名な神殿跡地に佇むと、いろいろな遺跡を眺めつつ「そうかー、下水道の設備もあったのか」と、当時の生活水準の高さを知ることになる。「ローマ帝国は、ギリシャ市民国家の進歩していた要素を盗み出していたようであるが、下水道・上水道などのインフラ整備の重要性も学んでいたのか!!」を知るにつけても、知的好奇心に刺激を与えることになる。
 クレタ島最南端の岬から南東方向を眺めると、エジプトが遠く描かれる。距離にして2,000km程度か。6,000年前のエジプトでは、ピラミッドを建設できるほどの世界最新かつ強力な国家の存在があった。その最先端の文明の波は、クレタ島にも届いていたはずだ。また、人の出入り・物流の取引も行われていたはずである。「地中海東部エリアでは、エジプト王国を中心にして繁栄の時代が1,000年、2,000年継続されていたのか!!クレタ島の支配者たちも、毎年エジプト王国へ朝貢していたのか?」と想像するに至る。

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 時代は下って2,000年前のこと。ローマ帝国絶頂時のことだ。シーザーがエジプト征服に長征する。エジプト側は、クレオパトラ女王のときである。「エジプトを滅ぼさない」という条件で、クレオパトラはシーザーと結婚を決意する(事実は妾か正妻か定かではない)。この2,000年前まで時代が下ってくると、「クレタ島の位置はどうなっているのかな?」という興味が芽生える。恐らくギリシャ本土の関係は疎遠となり、ローマ帝国の権力者の一派と繋がりを濃くする努力をしていたのではないか!!

 どうであれ、クレタの島民たちの生活スタイルには、何ら変化はなかったとみられる。新鮮な海の幸や農産物、肉類を料理して食を堪能する。料理にはたっぷりとオリーブオイルをかけ、とっておきの赤ワインを飲み、議論をし合う光景を勝手に思い浮かべる。『6,000年の悠久の地・クレタ島は天国の島』と、想いを深めていくのである。

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