『パナマ文書』を超える、山形をめぐる三篇(6)~公益の祖は本間光丘なり
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二代で頭角を現す本間家
1689年初代原光が新潟屋をスタートした年に松尾芭蕉が酒田にやってくる。1707年、本間家が山王神宿金勤仕の酒田町長人(おとな=町の世話役人、三十六人衆)になる。初代は酒田の商人の世界で着実に本間=新潟屋の信用を強化していった。京都においても商売の基礎を築き、1731年に光丘の実父・光寿が家督を二代目として継ぎ、二代目床五郎と名を改める。翌1732年光丘が生まれる。二代目も手堅い商売で酒田商人界では中堅の位置をキープするまでになった。
光丘は1750年、19歳で姫路の奈良屋権兵衛のもとに修行に行く(あとで弟友十郎も同じ奈良屋へ修業に行く)。昔は取引のある名門の商家へ鍛錬にいくことが常識になっていた。それも酒田から姫路という当時から見れば長距離の場所へ飛ばされたのである(現在の留学、例えばアメリカなどへは楽なものだ)。
姫路では当時の高名な学者とも知り合い大いに成長したようだ。3年間の修業を経て1753年、22歳の光丘は酒田へ戻る。翌1754年に実父光寿は没する。光丘は慌ただしく三代目家督を相続する。23歳にして酒田町長人を命ぜられる。ここから「公益の祖・本間光丘」の人生がスタートするのである。父からの遺言の1つに「五丁野の萱原(かやはら)と日本海の砂塵だけは――おまえ一代のうちになんとか解決してくれ」というものがあった。
日本海の突風による砂塵で酒田は塩と砂の山
下記に掲載した現在の酒田市の鳥瞰図をみていただきたい。酒田港・最上川河口を中心にして南側にも北側にも見事な松林防風林が育っている。さらに内陸部に第二陣の防風林が横たわっている。前回、指摘したように最上川河口に立つと西からの強力な風を浴びて、体全体が飛ばされるような脅威感を受けた。現在では防風林が整備されているから砂塵が舞い上がることはない。波の飛沫(しぶき)に襲われる程度である。江戸時代は黄塵の攻撃を浴びて酒田の町が機能麻痺に陥ったそうだ。
光丘が3代目を継いだ頃、1754年当時、海岸線は砂丘状態であった。だから11月中旬から西風、北西からの強風が襲いかかるようになると砂塵との戦いとなる。生活空間ではマスクをしないと息苦しい生活を余儀なくされる。人間ならば、その環境に耐えることは、しんどいが、できるだろう。問題は田畑が砂に被ることである。海辺から陸地内部10キロまでの耕作地に砂塵が溜まる。堆積物は塩分を含んだ砂である。簡単には土壌改良は不可能。場所によって翌年の田植えが不能になる甚大な被害が続出したそうだ。
庄内平野の美味しい米が全滅するとなると大事、致命的になる。現代ならともかく当時は一期でも田植えができなければ飢饉状態になり住民たちは逃散するしか選択の道はなかったのである。結果、酒田の町は疲弊する運命となる。商売どころではなくなるのは自明の理である。
光丘は目先の欲を捨てて「まずは民が安心して生活できる環境を整備してこそ商売の基盤が確立される」という強靭な使命感のもとに酒田の町を危うくさせる砂塵撲滅対策の陣頭指揮を執り始めたのである。三代目を継承して4年目の1758年から植林作業を開始した。迅速な行動である。光丘が過去の防砂林の築造事業を調べると幾度となく手がけられても失敗の連続であったことが分かる。光丘を勇気づけたのは、酒田と地つづきの西山というところの植林が一部、成功しているということであった。「不可能なことはない」と自分に言い聞かせて庄内藩に砂防林プロジェクト計画を提出した。本間家の屋台骨を揺るがすほどの資金を自ら提供しない限り、信用は得られないことは分りきっていた。
藩の協力もとりつけて難工事に着手する。地元の労務者も大量に採用するからありがたがられる。幾多の挫折を跳ね除けながら前進する。この英雄的な奉仕活動には地元の商人たちも感動して支援協力体制が構築されていく。それから5年後の1762年晩秋に、ようやく防砂林の完成のメドがついた。完成式は町民と郷村の百姓たちの発起で祝宴がなされたそうである。この時に光丘は藩侯から町年寄格に任じられた。ここから「公益の祖=本間光丘」の名声が確立されていったのだ。それ以降も植林事業は本間家では代々の継続事業となったのである。
(つづく)
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