「創業家の乱」――出光興産と昭和シェルの合併に反対した創業家の狙い?(後)
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出勤簿なし、定年なし、労働組合なしの大家族主義
出光佐三氏は1885(明治18)年8月、福岡県宗像郡赤間村(現・宗像市赤間)に生まれた。反骨心は生来のものだったようだ。神戸高等商業学校(現・神戸大学)を卒業すると、個人商店に就職した。神戸高商の卒業生は、大企業・大銀行に就職するのが普通。従業員6名の個人商店に丁稚奉公に出たから、「高商を出ながら丁稚奉公とは、学校の面汚し」とまで非難する者もいた。佐三青年は平然と聞き流したという。
2年後に独立。1911(明治44)年、郷里に近い門司(現・北九州市門司区)で、石油販売業、出光商会を開業した。1940年に出光興産を設立。人間尊重を謳い、「出勤簿なし、定年なし、労働組合なし」の三無主義を掲げた。出光一族分裂、社長派と会長派が抗争
時代移る。2000年、出光は大家族主義の旗を下ろすことになる。
出光は有利子負債1兆7,000億円を抱え、倒産の危機に瀕した。再建を巡り、一族が分裂。派閥抗争に突入した。
発端は株式上場問題。2000年5月、出光昭社長が外部資本の受け入れを表明、「数年後には上場も検討する」とぶち上げたのに対し、出光昭介会長が真っ向から反対。上場推進の社長派と反対の会長派に分かれての内紛劇に発展した。
会長の昭介氏は、創業者の佐三氏の長男で、第5代社長を務めた。出光の株式の4割を支配する唯一の個人株主。出光家本家直系のオーナーだ。
社長の出光昭氏は、佐三氏の末弟で、2代目社長、出光計助氏の次男。出光家最後のプリンスとして1998年に社長に就いた。傍流なので、出光の株式は1枚も持たない。
社長派についたのは、専務に昇格したばかりの天坊昭彦氏。増資、上場の青写真は、天坊氏がメインバンクの住友銀行(現・三井住友銀行)と東海銀行(現・三菱東京UFJ銀行)の意向を受けて周到に準備したものだ。銀行の後押しを受けた社長派が勝利し、2000年より外部資本の受け入れ、2006年の株式上場が決まった。
経営路線争いに敗れた昭介氏は2001年、代表権のない名誉会長に退いた。2002年に社長の昭氏が会長に就き、非同族の天坊氏が8代社長に昇格した。
出光興産は2006年10月に東証1部に上場した。同族色が薄まったことを見届けた昭氏は、経営から手を引いた。これで出光興産には、出光家の取締役は1人もいなくなった。
イランとサウジの対立が影を落としている
出光興産は同族オーナー型経営から所有と経営を分離した企業に移行した。創業家は「君臨すれども統治せず」の立場である。これまで、創業家と経営陣の軋轢を耳にしなかった。
ところが、ここに来て、なぜ、創業家の出光昭介氏が、経営陣に刃を突き付けたのか。
考えられることは1つ。出光が昭和シェルとの合併することになったからだ。石油再編は時の流れで、統合には反対ではない。だが、昭和シェルとの合併はダメ。サウジアラビアの国営会社サウジアラムコが大株主になっているからだ。
出光が昭和シェルを買収して傘下に収めるのであれば、出光の株主構成に変化はない。だが、合併となると、株主構成は大きく変わる。出光の株式が昭和シェルの株主に割り当てるため、昭和シェルの株主が出光の株主になる。
昭和シェルの大株主であるサウジアラムコが、出光の大株主として登場。出光創業家の比率は大きく目減りする。3分の1の株式を持つという特別の地位を失ってしまう。これは大きな痛手だ。創業者の佐三氏以来、イランに特別のシンパシーを抱いてきた創業家にとって、イランと敵対関係にあるサウジアラビアの国営企業の影響力が強まるのは望ましいことではない。
出光昭介氏の合併反対には、イランに対する熱い想いに根ざしている。賛成率52.3%と月岡社長が事実上の「不信任」を突き付けられた意味は大きい。経営陣は、昭介氏を説得して、出光興産と昭和シェル石油との合併にこぎ着けることができるだろうか。出光興産の経営陣には、ことのほか熱い夏になりそうだ。
(了)
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