ヘルシンキ直行便の光を絶やすな!(8)~日本人の誇り・杉原千畝(中)
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命のビザとは
まずは、杉原千畝が発行した『命のビザ』とは何かを説明する。
リトアニアの在カウナス領事館へ押しかけたユダヤ人の大半は、ポーランド・リトアニア在住の方々、2つの国にあるユダヤ教の大学の留学生であった。この2つの国は、ドイツ・ソ連に征服されたことで国籍を失ってしまうである。どこかに逃げなければならない。普通の日本人なら、『命のビザ』が「日本へおいで・日本滞在のビザではない」ことには気づくであろう。筆者も、この疑問を抱いていた。「どういうビザなのか?」という疑問である。これは、実際に現地を踏まないとわからない。『命のビザ』とは、日本国内の通過を許可するビザなのである。
背景を語ろう。逃亡するユダヤ人たちは、最終ゴール地点を決定しなければならない。普通なら、リトアニアからならば今のイスラエル、当時のパレスチナへヨーロッパを横断して向かうのが、最短のコースとみられていた。パレスチナに到達するには、必ずトルコ通過のビザが必要となる。ところが、ドイツの進撃を恐れたトルコ政府は日和ったのである。トルコ通過ビザを許可しなかったのだ。そうなると、逃げる先は東方しかない。西向きはドイツがすべて制圧している。悲惨なユダヤ人への支援者はたくさんいた。オランダもドイツから蹂躙されている。だからオランダ人も、ユダヤ人への強力なサポートをしていた。ユダヤ人たちの惨状を目撃した在カウナスオランダ領事・ヤン・ツヴァルテンディクは怒り狂い、そして冷静さを取り戻し、一捻り二捻りした。南米のスリナム・カリブ海にはキュラソーというオランダ領がある。『ここへおいでを許す』=偽造キュラソービザを乱発した。
この偽造ビザを手にしたユダヤ人たちが、カウナス日本領事館に押しかけるのは必然的な流れである。
『日本通過ビザ』の申請に押しかけてきたのが、1940年7月18日の朝のことであった。目が覚めた杉原は、外の異様な雑音に気づいた。カーテンを開けると、外に数多くのユダヤ人が押しかけているのである。さっそく本国外務省へ、『日本通過ビザ申請』許可の要請を行った。だが、ドイツと枢軸関係にある日本政府が許可するはずがない。ユダヤ人から一番尊敬される日本人・杉原千畝
許可が下りることを願って、杉原は悶々としていた。
「私は考え込んでしまった。元々、彼らは私にとって、何のゆかりもない赤の他人に過ぎない。いっそうのことビザ拒否を五名の代表だけに宣言し、領事館オフィスのドアを封印してほてるにでも引き上げようようと思えば、物理的には実行できる。しかし」と、杉原は日記に記してある。この先からが、傑物・杉原の行動選択である。本省に逆らう決断をした。
「対ナチス協調に迎合することによって、全世界に隠然たる勢力を有するユダヤ民族から、永遠の恨みを買ってまで、旅行書類の不備とか公安上の支障云々を口実に、ビザを拒否してもかまわないとでもいうのか?それが果たして国益にかなうことだというのか?苦慮の挙句、私はついに人道主義、博愛精神第一という結論を得ました。そして妻の同意を得て、職に忠実にこれを実行したのです」(千畝日記より)
悩みながらも決断したら、実行は早い。7月29日からビザ発給を開始した。不眠不休でビザの書類を書きまくった。2,139人分のビザを発給して、家族含めて6,000人以上の家族を救ったと言われる。ビザ支給開始から1カ月経って、プラハ総領事としての命を受けて転勤した。
それから30年も時代が下って、杉原は彼のおかげで助かったユダヤ人たちと再会している。ユダヤ人から見ると、日本人のなかで最も杉原を尊敬しているのである。杉原記念館に立つと、76年前の悪戦苦闘している杉原の姿が目に浮かぶ感じがした。1985年、杉原はイスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞」を授与された。そして翌86年に、86歳で永眠した。
(つづく)
杉原 千畝(すぎはら・ちうね)
第二次世界大戦中のリトアニアで、外務省の命令に反し、ナチス・ドイツから逃れてきた約6,000人のユダヤ系難民に日本通過のビザを発給した外交官。杉原の発給したビザは「命のビザ」とよばれ、このビザで救われた人たちはその子孫も合わせて、現在数十万人以上にもおよび、世界各国で活躍している。自らの工場で働くユダヤ人を救ったことで知られるドイツ人実業家、オスカー・シンドラーになぞらえて、「日本のシンドラー」とも呼ばれている。
1900年1月1日、岐阜県八百津町生まれ。早稲田大学高等師範部英語科を中退、外務省の官費留学生として満州のハルビン学院でロシア語を学んだ後、同省に採用される。満洲国外交部、フィンランドの在ヘルシンキ日本公使館などでの勤務を経て、39年にリトアニアの日本領事館に領事代理として赴任した。
「命のビザ」を発給したのは、40年夏。ポーランドを追われてきた大勢のユダヤ人避難民が、ソ連・日本を経由して第三国に移住しようと日本通過ビザを求めてきた。杉原は、要件を満たさないユダヤ人避難民にも人道上ビザの発給を認めるよう外務省に願い出たが認められず、悩んだ末に独断で発給を決断。領事館はすでに閉鎖が決まっていたが、出国直前までの約1カ月間、発給を続けたという。その後、チェコ、ルーマニアなどで勤務し、46年に帰国。帰国した彼を待っていたのは、独断でビザを発給したことの責任による外務省からの解職であった。その後の杉原は、商社等の現地駐在員として日々を送り、ビザのことは自ら語ることはなかった。「命のビザ」のエピソードが知られるようになったのは、69年にイスラエル政府が杉原に勲章を授けてからだという。杉原と会ったイスラエル大使館のニシュリ参事官は、ボロボロになった当時のビザを手にし、涙をこぼして杉原に感謝の言葉をのべた。「ミスター・スギハラ、私たちはあなたのことを忘れたことはありません」。世界中のユダヤ人たちは、杉原のことを探し続けていたのであった。85年1月にはイスラエル政府から「諸国民の中の正義の人」として表彰され、91年にはリトアニアの首都にある通りの1つに「スギハラ通り」と名前が付けられた。故郷・八百津町には92年、「人道の丘公園」がオープンし、生誕100年となる2000年には記念館も設立されている。外務省も1990年代に入ってから当時の経緯の検証など「関係修復」に向けて動き、2000年に河野洋平外務大臣が遺族に謝罪した。
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