2024年11月05日( 火 )

電通の「鬼十則」は絶滅危惧種になる?(後)

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社員手帳に記されている「鬼十則」

電通『鬼十則』
1.仕事は自ら「創る」べきで、与えられるべきではない。
2.仕事とは、先手先手と「働き掛け」て行くことで、受け身でやるものではない。
3.「大きな仕事」と取り組め、小さな仕事はおのれを小さくする。
4.「難しい仕事」を狙え、それを成し遂げるところに進歩がある。
5.取り組んだら「放すな」、殺されても放すな、目的完遂までは・・・。
6.周囲を「引きずり回せ」、引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地のひらきができる。
7.「計画」を持て、長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる。
8.「自信」を持て、自信がないから君の仕事には、迫力も粘りも、そして厚味すらがない。
9.頭は常に「全回転」、八方に気を配って、一分の隙もあってはならぬ、サービスとはそのようなものだ。
10.「摩擦を恐れるな」、摩擦は進歩の母、積極の肥料だ、でないと君は卑屈未練になる。

 「鬼十則」とは、4代目社長で「広告の鬼」「電通中興の祖」と呼ばれる故・吉田秀雄氏が1951年に定めた10カ条で、社員手帳に今も記されている。

「鬼十則」を起草した吉田秀雄の人物像

 「鬼十則」を実践したら、それこそ過労死や過労自殺は間違いないだろう。何とも凄まじい内容だ。吉田秀雄氏の伝記である舟越健之輔著『われ広告の鬼とならん』(ポプラ社)によると、「鬼十則」は自らを叱咤する言葉だという。

tokyo 「広告の鬼」たらんとする並外れた闘争心は、吉田氏の生い立ちと無関係ではない。吉田氏は1903(明治36)年、福岡県小倉市(現・北九州市小倉区)に生まれた。現場監督をしていた父が建設現場で事故死したため、家族はドン底に突き落とされた。母親は秀雄を進学させるため、養子縁組を考えた。最初は軍医の家の養子。軍医の妻が妊娠したため、養子縁組は破棄。次に小倉の素封家の吉田家の養子になり、渡辺秀雄は吉田秀雄となる。「中学を卒業するまでは辛抱するのよ」。涙ながら、こう諭した母の姿を、秀雄は一生、忘れることはなかった。

 東京帝国大学経済学部へ進学したが、吉田家が破産し、学資の送金が途絶えた。退学も考えたが、友人たちの励ましで卒業にこぎ着けた。吉田氏の苦虫を噛みつぶしたような風貌には、苦悩の半生が刻みこまれていると伝記は書く。

「わき目をふらず、駆けろ」のDNAを引き継ぐ

 吉田氏は1928(昭和3)年に日本電報通信社(現・電通)に入社した。公募で大学卒業者を採用した第1号だ。
 創業者の光永星郎(みつなが・ほしお)氏は「我々は常に一歩先に進まねばならぬ。併行を以って満足するものは、必ず落伍する」として、社員の駆け足会を発足させた。「走れ、走れ」と言い、得意先を回るときでも、「わき目をふらず、駆ける」ことを課した。朝は、始業時間とともにすぐ広告主のところに行くことを唱え、のんびり社内にたむろし、雑談などで時間を無駄にすることを非常に嫌った。吉田氏は、「走れ、走れ」の光永イズムを身につけ、光永氏のDNAを引き継いだ。

 1947年6月、GHQ(連合国軍総司令部)による公職追放で通信畑出身の社長が辞任。広告畑の吉田氏が43歳の若さで4代目社長に就任した。
 51年8月、東京・銀座の本社6階ホールで、日本電報通信社の創立51周年式典が開かれた。本社の社員、幹部約200人を前に吉田社長が挨拶した。前掲書『われ広告の鬼とならん』は、挨拶をこう綴った。

 〈創業の功労者である光永八火先生(八火は、創業者の光永星郎の雅号)はまことに電通の鬼であった。八火先生の眼中には電通以外なにもなかった。いくどか倒産の危機にひんしながら、電通の鬼となることによって、その困難を乗り越え、今日の基礎をお作りになった〉

 吉田氏が社員の前で「鬼」について語ったのは、このときが最初である。電通の鬼、光永星郎氏の経営理念を反映した社員の心構えが、吉田氏が起草した「鬼十則」である。「電通の鬼」光永星郎氏を乗り越えて、「広告の鬼」とならんとする吉田秀雄氏の気概が込められている。

 “電通人”の行動の基本原理は、鬼十則にあった。それに沿った行動を求められてきた。過労死や過労自殺が後を絶たないなか、電通の石井直社長が働き方改革として打ち出したのが、「鬼十則」の働き方の否定である。来年の新入社員に配る社員手帳から、鬼十則が消えるのだろうか――。「鬼十則」は、絶滅の危機にある。

(了)

 
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