有澤建設通算100周年 中興の祖・木下泰博物語(2)~成功者は時代のチャンスを掴む
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オイルショックで売上20倍増
1973年のオイルショックは経済動乱しか記憶に残っていない。だが、冷静に考えると日本の社会構造が抜本的に変革された契機になっていったのである。一口で言えば高次元の生活水準時代に突入したと評価されるであろう。このオイル価格高騰と物価高騰は、回りまわってすべての国民に恩恵を与えたということである。万民が潤ったという物価動乱の例は世界でも珍しい。庶民の抗議行動が必ず生じるものだ。ところがあらゆる平民の給料が3倍に跳ね上がった。
まず1971年の大卒の平均初任給は3万円前後。1975年には2.5倍、いや3倍に上がっている。筆者が前職の会社に入社した1975年2月の月給は11万円であった。役人たちは物価動乱の前半時には生活に困窮したが、1975年から76年にかけて2.5倍の給料増を手にした。1973年当時の日本の生活水準は資本主義の西洋諸国との比較では立ち遅れていた。だから社会全体が物価高騰を吸収できる余地があったのだ。表現を変えれば「オイル物価動乱は日本の社会の現代化を加速化させる貢献があった」といえる。
オイルショックの直接の契機はイスラエルとアラブ諸国との間での中東戦争勃発である。オイル産出国が結束して価格を押し上げたことで原油価格が暴騰した。これ以来、オイル産出国が価格の主導権を握るようになったのである。安いオイルに頼っていた工業生産活動、自動車燃料、人間生活の在り方が根本から転換を余儀なくされたのである。この1973、74あたりから省エネという言葉が流行し、省エネ産業が勃興するようになる。オイル高騰とタイミングが一致したのが田中角栄首相の誕生である。『日本列島改造論』をぶち上げて全国隅々まで不動産が高騰することとなった(その後、平成に2回の不動産バブルが起きたが、この列島改造論による不動産バブルの全国規模の広がりとは到底、勝負にはならない)。
地価高騰を目撃した一般大衆は建売を求めるようになった。1973年の建物着工件数180万戸は未だに破られていない。全国津々浦々、建売ラッシュに沸いた。
着工件数の勢いは74年、75年も続いた。この3年間、庶民が戸建を求めた史上最大のバブル期であったと評価される。戦後の住宅環境の貧困さは、庶民自らの力で住宅を購入することで改善することができた。しかし、この時点で供給された住宅性能は劣悪であったのもまた事実である。まだまだ進化させる余地は充分にあった。
さて有澤建設の当時の状況を振り返ろう!!木下泰博氏の日課は、昼間は現場に出て現場監督をこなす。夜は営業マンが昼間、唾をつけていた見込み客のところへ夜討ちをかける。遅くなれば夜、11時まで滞在していたとか!!下請けだけでなく「自前の仕事も受注するぞ!!」という信念を貫こうとしたのだ。だが現実は厳しい。住宅会社から仕事の発注が増大してくるため、その対応に大童である。1973年から受注急増に拍車がかかった。1975年期には遂に受注額は5億円を突破したのである。1968年法人1期目の20倍強の伸びを果たしたのだ。
下請けの脆さ打開に真剣に立ち向かう
木下泰博氏は毎晩、毎晩、自問自答していた。「パシフィック航業さん、東芝さんなどの得意先さんには深く感謝をしている。だが永遠に『元請け・下請け』の関係が続くわけがない。先方の都合で自社の運命を翻弄されたくない。どうすれが良いか!!自前で仕事をとれる元請けへ脱皮するしかない」と覚悟を決めた。1975年を起点に舵取りを大きく切り替えたのである。この選択は後日、正解であったことが確認される。
住宅会社発注の戸建を受ける工務店は、当時「建て屋」と呼ばれていた。この類のトップ建て屋は年間300棟を立ち上げていた。1棟600万円で年間18億円の実績を残していたわけだ。建て屋のオヤジに会うと必ず「もうこんな建て屋の受注形態は終わってしまう。業態チェンジしないといけない」と危機感を募らせる発言をしていた。それでもチェンジする行動に踏み切らない。結果、進化不能になった建て屋たちは市場から淘汰され、すべて退場させられた。生存できる者こそは日々、脱皮を試みているからだ。有澤建設にとって1975年が元請け=ゼネコンへ挑戦開始する記念すべき年であったのだ。
(つづく)
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