2024年12月26日( 木 )

有澤建設通算100周年 中興の祖・木下泰博物語(5)~2度目の躍進で企業基盤を打ち固める

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バブルドラマを踏み越えて

kensetu 1985年から95年(18期から28期)の10年間は有澤建設にとっても、木下氏にとってもバブル崩壊のドラマに直面しながらも『マイペースで自社を打ち固める』10年間であった。平成初頭のバブルの寵児=冬野観光は最大のお客さんであった。舞鶴・親不孝通りにこの冬野観光が西日本最大規模のディスコを建設した。この物件の工事高は4億円であった。有澤建設はこの冬野観光から総計10億円以上の工事を請け負った。ディスコブームは一瞬にして泡と帰してこの会社は倒産したが、有澤建設は完全に工事代金を回収した。

 ここが木下氏の凄いところである。「請負業者は施主様をパーフェクトに満足させる物件に建て上げて引き渡す。だからこそ契約通りに回収させてもらう」という信条を貫徹したからこそ、バブル崩壊の局面を平然とクリアできたのである。90年を境にして、バブルが弾けて倒産した同業者は、すべて回収不能の案件を抱いていたのだ。バブルを尻目にして躍進した10年間は雌伏時代に認めてきた木下経営流を実行する期間であると位置づけられる。

実需で勝負

 前シリーズ(4)で木下経営哲学を『バランスと元請け』と指摘した。ただこの元請けを厳密に点検すると『造注』の意味合いが強い。(1)まずは戸建ての遺伝子を持っていた同社は10~20戸の分譲を売りだす戸建分譲を強化していった。(2)マンション業者の下請けを排除して自社のマンション開発に専念した。潰れてしまったが、アーサーホーム、じゅうなどとのマンション開発は共同事業で完遂した。であるから仕事の内容は『造注』に近い。従来の建設元請けは施主に弱いという体質改善を有澤建設では戒めようという木下氏の真髄がありありと具現されている。

 この(1)と(2)の実績を踏まえて業績をあげると、一般のRC工事も増加するのが業界の常識である。バブルの土地転がしを戒めて実需に徹したことでバブル期を平然と乗り切ったのであるが、木下経営はすべて慎重、手堅いというのではない。勝負するところでは果敢に攻撃をかけるのである。25期から28期にかけて借入金が8億台から25億円へ膨張している。木下氏はバブルが弾けた以降の今後の受注環境の予測を立てたのだ。

 「バブルが弾けた日本経済の立て直しには住宅建設の投資を減らすわけにはいかない。住宅ローンを充実させて戸建・マンションを買いやすくする環境を整備しようというのが、日本政府の景気対策である」と読んだのである。この読みの帰結は『造注強化』である。だから銀行借り入れを増やして土地仕込みに専念したのである。土地代は値下がりしており仕入れが好条件ではかどった。

 土地を安く仕込めば戸建・マンション分譲の利益率はアップする。売上30億円を超えると共に1億円以上の経常利益を固められる企業になったのである。木下流は『機あらば突進力を爆発させる』一面もあるのだ。すべてが完璧というものはない。虫食いの建売在庫も残ることもある。シリーズ(1)で書いた筆者が建売2棟に販売協力したのはこの時期であった。

 社長就任する1997年期完工高40億円をあげて中堅からトップランクを狙う時期にさしかかったのである。
 平成初め1992年当時であった。有澤英一社長(義兄)から相談があった。「泰博専務、俺もそろそろ70歳に近づく。次の事業継承のことも考えないといけない。次は君がやってくれ!!」というものであった。まず開口一番、「廣己(有澤英一氏の長男)はどうするのですか?」と切り返した。「廣己に社長を任されるか?」と厳しい詰問を浴びせられた。ここで腹を括った。「甥の廣己でも経営できる素晴らしい会社に仕上げてバトンタッチするか!!」と決断したのである。

 英一社長の息子・廣己氏に関しては同氏から「廣己には会社を任されない」と10回以上も聞かされた。だから次の事業後継者は木下泰博氏しかいないということは昭和の終わり頃から確信していた。廣己氏のことはあとで触れるとする。オヤジ・英一氏が「廣己は跡継ぎとしては無理」と繰り返して語るから筆者もあちこちに公言した。だから根に持っているのであろう((1)シリーズでも指摘)。有澤建設の中興の祖=木下泰博氏に一つだけ問いただしたい。「あなたが廣己氏を抜擢したのは間違いであった」。これは最後のシリーズ10でまとめる。

(つづく)

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