有澤建設通算100周年 中興の祖・木下泰博物語(7)~木下泰博経営満開期から盤石な継承固め
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地場6位へ飛び出る
木下泰博氏が有澤英一氏から経営のバトンタッチを受けたのが1997年9月、第31期目である。木下新社長のインタビューは、前回(6)で紹介した通りだ。取材で語った以上に、同氏の胸中には並々ならぬ覚悟と決意が燃えていた。「2代目を引き受けた以上、企業体質を“岩盤”に匹敵する強化なものに構築して、半世紀は事業継承できる組織にする」との結論に達していた。いわゆる“木下流経営手法”を満開にさせることで、理想の組織を創造するというのだ。
もう一度、おさらいすると、(1)1975年までは、食うために木造『建て屋』として一心不乱に生きてきた。5億円の規模になったが、どうにか建設業のイロハを会得した。木造住宅の異常な着工件数の時代背景に、乗れた運が幸いした。(2)その後の85年までの10年間は『己探しの期間』(=雌伏の時代)である。木下流の経営の基本を模索し、固めていく過程であった。(3)95年までの10年間は、バブル期とそのバブルが弾けるドラマの渦中で、『バランスと元請け』を原点にして木下流経営を開花させ、実態形成を成功させた。
そして95年から2005年までの10年間は、木下経営手法の総決算の時期である(結果的には、03年8月期までであったが)。
木下流経営の特性の1つは『元請け主義=造注』である。先行投資してマンションや戸建て分譲を行う。だから高収益を得られる。そのため、この手法は借入増になる傾向になる。社長に就任した時点での97年8月期は、売上39億6,556万円に対して借入額は22億円があった。後で触れるが、有澤廣己氏にバトンタッチする時点では、借入額を実質ゼロにしている(借入残2億円は、銀行付き合い上の借入)。ここまで借入が圧縮できるのは見事、あっぱれだ。どうであれ、木下新社長は着実に事を進めていった。弊社は毎年福岡地区(福岡県)のゼネコンのランキングを作成している。05年の統計を下記に添付しているものを参照されたし。
(1)売上ランキングでは有澤建設は24位なのだが、評点ランキングでは6位に飛び込んでいるのである。まず売上ランキングの上位を眺めると、隔世の感がする。3位のディックスクロキや20位のジョーコーポレーションはすでに倒産している。他の企業でも栄枯盛衰が凄い。現時点までマイペースを堅持しているのは、上村建設、北洋建設、照栄建設、サンコービルド等々だ。最後の総括で指摘するが、木下氏がシビアな事業者継承に成功していれば、現在でも売上100億円強、評点ランキング6位以内をキープしていたであろう。
このランキングにおいての有澤建設の決算(03年8月期)は、売上高45億2,026万円、純利益6,778万円を稼ぎ出している。木下社長がしっかりと退職金を握ったから、利益が圧縮できたのである。毎回、有澤建設は「中位の下位ランクまできた」とか、「中堅クラスの地位を確定した」と、その都度、評価を明確にしてきた。03年8月期時点では「有澤建設は上位を狙うところまで這い上がってきた。さー、次の打つ手は!!」と論評したであろう。緻密な事業継承への岩盤づくり
木下氏は本来、「社長業に10年励んで、絶対に潰れない組織にして、甥の有澤廣己に事業継承しよう」と策を練り上げ、手を打ってきた。(1)まずは無借金にすること。これはほぼ実現した。(2)2年間の仕事を確保し、業績が落ち込まないだけの受注を確保して事業を譲る計画も、100%近い詰めを行った。「男・泰博のメンツにかけても、3年で業績悪化してアリサワはオオゴトになったと笑わせないぞ」と固く誓って、布石を打ってきたのだ。
ところが、嬉しい悲鳴を挙げたくなったのである。福岡商業高校立替工事、地下鉄3号線操作場指令・管理棟などの、高収益官需が引き渡しとなった。おかげで、当初の目標設定(事業継承するための経営指数)が、3年前倒しで実現できるようになったのだ。
70年代後半の住宅着工件数の急増、90年初頭のバブルと企業成長の後押しの強運をいただいた木下泰博氏に、経営満期終了前に神が『官公庁収益物件』を与えてくれた。しかし事業継承策は、あえなく失敗に終わったのである。
(つづく)
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