有澤建設通算100周年 中興の祖・木下泰博物語(8)~鬼にならなかったことを悔やむ
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有澤廣己氏とは何者?
2004年8月に3代目社長に就任した有澤廣己氏とは何者か?一言でいえば初代社長・有澤英一氏の長男である。二代目社長・木下泰博氏の甥にあたり、同氏の姉の子どもである。廣己氏は福岡市南区清水で1956年1月23日に生まれた。筑紫丘中学から博多工業高校にて建設建築の素養を積む。筆者は長年、廣己氏を「筑紫丘高校卒」と勘違いしていた。母親からは「大学へ進学しなさい」と懇願されたのだが、これを拒否した。
卒業して東京の設計事務所に就職したが、木下氏が「もう福岡へ戻ってこい」と催促して有澤建設に就職した背景がある。ところが東京帰りの廣己氏が「アリサワのレベルは低いな。やっちゃーおれない」と独立したのが、1984年のことであった。有澤建設に入社して5年後のことである。廣生建築設計事務所を立ち上げたのである。意気込みは素晴らしかったが、経営才覚には乏しい。「飯が食えない」という状況に陥った。そこで木下氏が叔父心で出戻りの打診をしてみた。廣己氏にしてみれば渡りに船の心境でその打診に飛び乗った。
1991年1月に出戻りして「肩書無しでは恥ずかしいだろう」というまたまたの叔父心で取締役の職を与えた。廣己氏がやったことと言えば(1)JC活動(2)ゴルフ、スキーの上達に専念したことである(スキーはインストラクターの資格を有している)。「会社経営者は何を成すべきか?」を一度も考えたことはなかったのではないだろうか!!廣己氏の人脈はJCの一部とゴルフ・スキー仲間程度である(監査役・篠原俊氏はJC仲間)。この廣己氏の言動と能力を判定した木下泰博氏は悩み続けた。
木下建設と呼ばれることへの葛藤
有澤英一氏は公約通り70歳で木下氏に社長のポストを譲った。そして2001年8月に「新世紀になり老兵は消えるのみ」と叫んで会長からも身を退いた。英一氏から申し渡された命令はすべて正当性がある。「廣己を社長にさせたら絶対に会社は潰れるぞ!1億、2億程度の規模ならば賄えるかしれないが、現状の40億の規模になった会社の経営は到底、無理だ。従業員が離れる。特に幹部社員が飛びだすぞ」と厳命を受けた。この指摘はすべて的確であった。だが泰博氏の生き様が許さない。付記すると有澤家は父・息子関係が悪いという家風がある。英一氏も親父との仲は悪く英一・廣己親子関係も悪かった。
他人様がどう陰口を叩こうとも気にはしないのだが、「木下氏はアリサワを乗っ取って木下建設にしてしまった」という世間評価には我慢できないのである。有澤英一氏が引退して以降は100%木下泰博氏が経営している。誰もが「有澤建設ならず木下建設」と呼んだとしても無頓着でいれば良いのだが、今回は非常に気にした。有澤家に嫁いだ姉の懇願で有澤建設に入社した経緯もある。「有澤の長男・廣己に事業継承させるのが筋である」と自己を納得させるべく毎晩、繰り返し唱えた。
寝つきの悪い夜が連続した。「任せて潰されたら社員たちの食い扶持をどうしてやればよいだろうか」という不安もよぎったという。だからこそ眠れなかったのである。しかし筆者は冷酷に突き放す。「泰博氏の気配りは間違いであった。現にいま有澤建設の社長は貴方の次男が担っているではないか!!実体は木下建設だ」と。窺った見方として事情に精通すると称する者が語った。「木下氏はなかなかの戦略家だ。廣己氏の無能ぶりは近々、露呈されるからその後、次男さんを据える魂胆だったではなかったのか!!」と。
世の中にはこういう知ったかぶりの輩が多い。泰博氏が決断したのは姉から次の言葉を聞いたからである。「廣己が心配してこう聞くのよ。【オジサンは俺に社長のポストを譲るのだろうか?】と。【オジサンは必ずあなたに譲るよ】と応えたわ」。これで最終決断をした。2003年8月に社長のポストを廣己氏に渡し会長部屋に引っ越しした。その日、廣己新社長は業務中にもかかわらず社長室の改造を始めたのである。「よほど社長になりたかったのか!!これでは共同でやっていけないな」と確信した。だから1年(2005年11月)で会長からも引退した。予想よりも早くゴタゴタが発生するのである。
(つづく)
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