2024年11月05日( 火 )

有澤建設通算100周年 中興の祖・木下泰博物語(9)~辞めて6期で20億円を割る

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オーナー気取り

 有澤廣己氏は何か勘違いしているようだ。「社長たるものは命令すれば社員は何でも言うことをきく」と信じている。誰かの入れ知恵かも知れないが、持ち株会社有澤ホールディングスを設立した。目的は持ち株会社というところから悠然とオーナー命令で采配を振るうつもりでいたのだ。
 現在、紙与産業というビル経営をしている渡邊一党であれば「オーナーでござるぞ」と声を発すれば下々は首をたれて従属するであろう。ところが、たかが「有澤家のオーナーでござるぞ!」と叫んでも誰が心服するものか!!

office2 筆者が独立する決意をしたのは二代目が馬鹿だったからだ。初代オーナーには今でも深く感謝の念を抱いている。『仕事は嫌い、脳(能とも)はない、おべっか言う連中を側近にして、女に現を抜かす』ことに愛想を尽かしてサヨナラをした。現状、業績はどうなっているのか!というと、惨めな状況に陥っている。木下氏に廣己氏へのバトンタッチ反対を伝えたのは自分の経験に基づいてであった。「必ず素晴らしい人材が散っていきますよ」と断言した。

 まさに予想通り。有澤建設の住宅事業は年間10億円の売上を計上していた。この責任部長が「やっちゃー、おれん」と叫んでこの組織事業を持ちだした。スタッフの大半がついていったから『能と徳』があったのだろう。現在もその企業は存続しているから経営才覚はあったと言えよう。廣己氏に伝えたいのは「社員たちは自分の生活を守ってくれる人にしか忠誠心を持たない」ということである。伝えてももう遅かろうが――。

 こんな組織環境では業績は降下するばかりである。木下氏が会長を辞任した翌期・2006年39期は売上高が45億円を超え、同社の最高を記録した。これが木下氏の残した最後の置き土産となった。これを境にした転落の一路をたどる。木下氏辞任後の5期目、10年期43期には、ついに売上高が20億円を割り、18億円台へ転落する。半減したのである。建設業界で同期間にこんな無様な受注減の例を見たことがなかったのだ。外部環境による落ち込みではない。原因はシンプル、経営主体の問題。廣己氏に経営者の能がなかっただけである。同氏の癒しは古賀ゴルフクラブでプレーするのみであった(もちろん、スキーも楽しんでいた)。売上急減でも赤字が出ていないことを疑問視される方もあろう。赤字撲滅のために福岡市南区の作業場、本社(福岡市城南区)などを売却して利益対策を講じたのである。

救世主・木下英資氏

 10年10月にSICに次のような記事を準備していた。ネットの一般読者には分かりにくいだろうから説明する。弊社が毎週2回発行している会員誌「IB」のなかに企業の警戒情報を発するコーナーがある。それがSICである。10年10月のSICの原案はこうだ。「2004年8月有澤廣己氏が社長に就任して以降、業績の悪化が顕著である。さーどうなるのか!!策があるのか」。筆者としては「有澤建設には自浄作用なし。自力による復元は無理」と判断していたからである。ところが予想だしない情報が飛び込んできたのだ。

 「木下英資氏が社長に就任、有澤廣己氏が会長へ」という情報である。「ほー英資氏が立ち上がったのか」と意外感をだいた。しかし、一方では「これだけ業績が落ち込めば社員たちは疑心暗鬼になり組織は崩壊寸前なのだろう」と推察した。「泰博氏の次男が立ったとなれば武士の情けでSIC発信は当分、見合わせよう」と判断した。英資氏もこういう人様の人的関係(オヤジ・泰氏の人脈)の配慮が働いていることに気づかないとね。

 木下英資氏は1971年7月生まれ、95年、早稲田大学卒業、西日本旅客鉄道の入社、2000年10月に入社していた。後の取材で4代目社長木下英資氏が本音を次のように語った。「社員の不満・不安が高まってきて『英資さん!!何か対策を講じてください』と迫られた」そうである。「こうなると身内の立場にある自分が立つしかない」と腹をくくったそうな。
 「廣己社長!!もう抜本的策を講じないと収まりません。私に社長を任してください」と必死で詰めたのだが、意外とあっさりと返事があったのには驚いたそうだ。「任せるから会長ポストをくれ!!」というものであった。本人も事態の深刻さを充分に承知していたのであろう。自分の力で解決不能と見立てたのかもしれない。

(つづく)

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