2024年12月25日( 水 )

パンの木村屋が閉鎖~『のれん分け』の今昔(前)

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 福岡県久留米市に本社を置き、「キムラヤ」の屋号で小売り店舗を展開していた老舗パン店、(株)木村屋が1月31日、全店舗を閉鎖し事業を終了した。木村屋は、あんぱんを考案した東京の(株)木村屋總本店からのれん分けを受けた企業だ。店舗を開業する方法は、かつては“のれん分け”、今日は“フランチャイズ”へと変わっている。のれん分けと現代版のれん分けであるフランチャイズについて考えてみよう。

あんぱんの元祖、木村屋總本店からのれん分け

kimuraya “のれん分け”とは、長く勤めた奉公人に独立の店を与え、その屋号を名乗ることを許し、得意先等も分けてやることを言う。江戸時代から、親の店を継がずに店を持つには、働いていた店から、のれん分けしてもらうが一般的な方法だった。小僧から始め、盆と暮れの年1、2回の休みしかとらず、来る日も来る日も長い間働いたあと、やっとのれん分けしてもらえた。

 久留米の木村屋は1926年(大正15年)5月、萩尾芳雄氏が木村屋總本店から屋号をもらい、のれん分けによって設立した製パン会社だ。木村屋總本店は、あんぱんの元祖として有名。同社のホームページでは、酒種(天然酵母)を使った桜あんぱんの発祥をこう綴っている。

<明治8年(1875)4月4日、あんぱんを明治天皇へ献上することになりました。
天皇両陛下が東京の向島にある水戸藩の下屋敷でお花見をする際、お茶菓子として、お出しするためです。木村親子は、日本を象徴する国花で、季節感を表現できる「桜」に目を向け、奈良の吉野山から、八重桜の花びらの塩漬けを取り寄せ、あんぱんに埋め込んでみました。
酒種のパン生地と餡の甘味に桜の塩漬けが絶妙で、この味なら自信を持って献上できると、木村親子は確信しました。そして「桜あんぱん」は、天皇のお口に召されました。
陛下は大変気に入り、ことのほか皇后陛下のお口に合い、「引き続き納めるように」という両陛下のお言葉を戴くこととなりました。〉

 これが、木村屋總本店の代名詞となった桜あんぱんである。日本古来の饅頭と西洋のパンを組み合わせた和洋折衷の産物。明治の文明開化を象徴する最高傑作と言われている。

全国に生まれた「キムラヤ」屋号のパン店

 木村屋總本店は、のれん分けを積極的に行なった。パンを普及させるために、のれん分けし、全国に「キムラヤ」の屋号を冠したパン店が次々と生まれた。毎年、正月には、のれん分けで独立した店の店主が、新年の祝賀に總本店に出向くのが恒例だった。
 のれん分けで生まれた「キムラヤ」は徐々に数を減らしていったが、今も全国にいくつか残っている。しかし、久留米の木村屋のように経営が厳しい店が少なくないようだ。シンガーソングライターの大黒摩季さんの実家である(株)札幌キムラヤは、總本店からの、のれん分け企業だが、2002年に民事再生法を申請している。現在、總本店が支援して再建中だ。

 本家本元の木村屋總本店そのものも、経営は苦しい局面が続いている。長年、経営危機が取り沙汰されてきた。フランスパンのようなボリュームがあるパンが主流のなかで、小ぶりのあんぱんに固執したことが経営不振の原因とされる。酒種の桜あんぱんの大成功があまりに強烈だったため、転換ができなかったのだろう。

セブン&アイも出発はのれん分けだった

 日本最大の流通企業集団、(株)セブン&アイ・ホールディングスも出発はのれん分けであった。創業は1920年(大正9)年。名誉会長の伊藤雅俊氏の母親、伊藤ゆきさんの兄にあたる吉川敏雄氏が、東京市浅草区に羊華堂洋品店を開いたのが始まり。

 羊華堂が繁盛したため、吉川敏雄氏とは14歳の差がある伊藤譲氏が手伝うようになり、浅草・千住・荻窪に3店舗を構えるまでになった。1940年(昭和15年)、譲氏はのれん分けしてもらって、浅草に店を持つこととなる。

 譲氏は、母のゆきさんと弟の雅俊氏を引き取った。譲氏は小学校しか出ていなかったが 、学資を出して雅俊氏を横浜市立商業専門学校(現・横浜市立大学)に通わせた。
 空襲で浅草の羊華堂が焼失したため、譲氏と母のゆきさんは、足立区千住で戸板一枚の上に猿股を並べて売ることから出発した。学徒動員で応召していた雅俊氏は、復員して羊華堂を手伝うようになる。

 1956年に伊藤譲氏が死去し、伊藤雅俊氏が経営を引き継いだ。1958年に(株)イトーヨーカ堂を設立し、スーパーの王者へと駆上がっていった。のれん分けが、その出発だった。

(つづく)

 
(後)

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