溶けて溶けてどこへ行くの? 我々には覚悟はあるか(9)~巨星堕ちる・ソロン田原学氏(3)
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平成バブルはどうにか潜り抜ける
平成初頭のバブル期において、ソロン・田原氏は独特の存在感を発揮していたが、まだ業界断トツという基盤を確立するまでには至らなかった。やはり、すまい・新生住宅などが目立っている存在であった。1990年夏のことだ。「うちの駅南の土地を坪2,300万円で買ってくれるが、ソロンという会社はどんな会社だ」と問い合わせがあった。所有者がびっくり仰天する価格を提示されたことで不安を抱いたのだ。「心配しなくて良い」と断言した。
結果、売却した会社は借金過多から解放されて上等な会社へ変貌した。ソロン側は高買いしたため処理に苦労した(90年9月に福岡のバブルは弾けて不動産価格が下落したのだ)。このように土地価格下落前に結構な金額で数多くの仕込みをしていたため、バブル破裂時にソロン自体はかなりの傷を浴びた。この痛手から急速に体質回復を果たしたのは、田原社長の天才的な不動産情報勘によるものだ。東平尾公園・博多の森球技場開発の見方
「大都会でこれだけ近いところに飛行場がある福岡は便利だ」と来福した方々は評価する。しかし、平成の初頭、90年ごろまでは福岡空港の東部の丘陵部は山であった。現在の地名でいえば青木である。博多区と志免町との境に位置していて、目を引くのはウキコが経営する自動車学校(現・博多の森ドライビングスクール)のみだった。夜の往来を女性が1人で歩くのは危険視されていたゾーンであった。丘陵地域は道が行き止まりとなり、不便でもあった。
東平尾公園博多の森球技場は博多区の東平尾公園内にある球技場。施設は福岡市が所有し、福岡市緑のまちづくり協会が指定管理者として管理運営を行ってきた。福岡空港滑走路東側に隣接する、糟屋郡志免町との市町境にほど近い丘陵地をスポーツ公園として造成した東平尾公園(通称・博多の森)内にある。1995年に福岡市とその近郊で開催されたユニバーシアード福岡大会のサッカー会場として使用するために建設された。
交通の要所であればサッカー場を建設すれば済む話である。ところが道路事情が最低な辺鄙なところだ。新道路の建設が必要になってくる。1988年ごろから丘陵地帯の至る所で道路工事が始まった。完了してみると博多区から志免町へ抜ける道の選択が無限に増えた。現在の飛行場がある青木から立花寺、金隈にかけての高台を横切る道路が縦横無尽に走るようになった。凡人はこの光景を眺めて「便利になったものだ」と呟くだけに過ぎない。だが天才の着眼点はまったく違う。「ニューロードウェーが走れば周辺に必ず街ができる。飛行場は近いし、博多駅からも離れていない。また場所が博多区区域だ。志免町とは大違いだ。2,000万円前後であれば必ず売れる。東京などの他地区の方々も購入するかもしれない」と見通しを立てる。この勘の鋭さは当時、神技と評価して間違いなかったであろう。
決断すれば即断即効の行動である。田原氏は「千載一遇のチャンス」と、新道沿いで平均すれば坪10万円台で不動産を買い占めた(もちろん雑種地も含まれていたが)。瞬く間にマンションストリートを立ち上げた。ソロン単独では600戸、他業者を含めると1,000戸ものマンション新集落が誕生したのだ(他業者とは西鉄不動産など。売れると判断すればすぐ真似をするのが業界の常識だ)。
そのときの売値は、ファミリータイプ3LDKで2,000万円を切っていたようだ。空港から2kmぐらいの距離に位置し、博多駅までは8km程度、地下鉄の利便性もある。中洲からタクシー代2,000円以内で帰れるのだから魅力は高い。即完売になるのは当然だった。田原社長が回顧して語ったことがある。「俺が売りだしたマンション商品のなかでも、青木の団地は最高傑作の1つだ。さほどの広告費もかけなかったしね。絶対に売れると確信していた」。さらに「この大型マンションを供給することで街づくりをする社会的意義を理解できた」と補足する。20年前、夜には狸や狐が徘徊していた地域であった。それが様変わりして“ソロンニュータウン”と呼ばれるようになった。40歳前後の社員たちに聞いても、20年前のことは知らない。昔から開けていた地域と思い込んでいる。92~94年にかけての事業であった。この地区が田原氏の街づくり手法の基礎となった。
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