2024年12月26日( 木 )

宅配危機のヤマト運輸~宅急便の生みの親、小倉昌男氏の突破力を想起せよ!(後)

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宅急便を生み出した発想

 「私は、経営は論理だと思っている。だから、考える必要がある。考えて、考えて、考え抜く。でも、わからないことがある。その場合はやってみることである。やってみればわかる。やらなければわからない。これは私の信条である。」(小倉昌男著『やればわかる やればできる-クロネコ宅急便が成功したわけ』講談社)

 小倉昌男氏は、論理の人である。考えて、考えて、考え抜いて確信すると、自ら退路を断って背水の陣を敷き、正面突破の正攻法で事に当たる。だから、妥協しない。そのため、多くの敵をつくった。自ら「狷介(けんかい)」(人の意見を聞かず、妥協しない)と評し、頑なな性格だったからこそ、誰もやろうとしなかった宅急便を生み出すことができた。

 小倉昌男氏は1971年、父・康臣(やすおみ)氏の後を継いで大和運輸(後のヤマト運輸、現・ヤマトホールディングス)の2代目社長に就いた。大和運輸は戦前、トラックの短距離路線の輸送で成功し「日本一のトラック会社」といわれた。

 しかし、1960年代の長距離輸送時代に出遅れた。同業他社と比べて5年の遅れだ。この5年間の遅れは決定的で、同じルートを走り続ける限り、追いつくのは困難だった。それでも大口貨物にこだわったため、業績は急降下。赤字に転落した。

 経営再建に取り組んだ昌男氏は、大口輸送貨物と決別し、個人・家庭を中心に据えた小口貨物に生き残りを賭けた。昌男氏は5年間、考えに考え抜いた。ドア・ツー・ドアで、荷物の受け取りから配送までの業務を、北海道から沖縄まで、一律1,000円でやってしまおうというのだ。こんな安い価格で、どうやって配達できるのか。荷物が1つしかなければ、1,000円ではとてもペイしない。しかし、年間に何億個も集まれば、スケールメリットが出る。ある段階から損益分岐点を超えて黒字に替わり、最後には膨大な黒字に転換すると考えた。
 電話1本で飛んで行って荷物を受け取り、翌日には届ける。それも安い料金でやる。事業の成否は、荷物の集荷と配送のシステムをどのように構築するかにかかっていた。

 小倉氏はニューヨークに出張した際、大手運送会社の車が四つ辻に4台停まっていた。これを見た小倉氏は「はっと閃いた」という。「1台当たりの集配密度を上げる」という成功のカギを手に入れた瞬間だ。
 「一(小倉氏)対五千(役員・従業員)」の四面楚歌のなか、1976年1月20日、宅配便事業は見切り発車した。「宅急便」が誕生した記念すべき日である。

不在、再配達問題への対応

 国土交通省の統計によると、2016年の宅配便の取扱個数は38.6億個。96年は14.3億個だったので、この20年間で2.7倍に急増したことになる。スマートフォーン(スマホ)の普及を追い風に、ネット通販は流通業界を塗り替える勢いで成長を続けてきた。それに歩調を合わせて、宅配便は急増した。今後は、IoT(モノのインターネット)革命による実店舗とネット通販が融合したオムニチャネル宅配が急増し、宅配件数60億時代が到来するといわれている。

 それにどう対処するのか。ポイントは、不在・再配達問題への対応にある。マンションへの宅配ボックスの設置、自動運転車やドローンを使った宅配の実験も行われている。

 「考えて、考えて、考え抜く。でも、わからないことがある。その場合はやってみることである」――小倉昌男氏の言葉を想起して、宅配危機を乗り切ってほしい。

(了)

 
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