イタリア元気レポート(3)~分裂都市国家イタリア
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イタリアと日本の間は気持ちが通じ合いイタリア料理を嫌う日本人は稀有であるほどお互いに親近感を抱く間柄である。しかし、意外と経済交流・人事交流の厚みはメジャーな関係を築くには至っていない。筆者は将来に向けてイタリア・日本の関係を濃厚にするべきであるという立場を取る。
イタリアと日本の決定的な違いは、イタリアがそもそも分裂した都市国家の連合体であり、日本は(計算の仕方にもよるが)1,500年間の統一された国家であるということだ。以下の「イタリア国家の近現代の歩み」を参照されたし。イタリアが近代国家の体裁を整えたのは150年前である。2000年前のいわゆる黄金時代は『イタリアの黄金時代』でなく『ローマ帝国の黄金時代』であった。現在のイタリア領土は『ローマ帝国の中核的支配地区』だったのである。
ルネッサンス時代はミラノ、フレンチェ、ジェノバ、ベネツィアなど各都市がそのまま国家となり、割拠する状態であった。ローマ帝国の面影は皆無である。その結果、ヨーロッパや中近東で台頭した大帝国に侵略されるという繰り返しであった。そしてそれぞれの都市国家は自国防衛には立ち上がることを余儀なくされたのである。ここで強調したいことは、説明した歴史的背景の下に、イタリア人は統一国家をあまり信用せずに自分自身、自分のファミリー、身内を優先した、より小さな単位で結束する度合いが非常に強いということだ。
スリ産業が5兆円という説もあるし、マフィア産業が10兆円を超えるという指摘もある。言い方を変えると国家は国民の所得を把握する力(税金補足力)が弱く、国民は裏産業=水面下収入が潤沢にあるということだ。だから公表された経済データをはるかに凌ぐ実質収入を国民は得ているということである。水面下の収入があるからこそ国民は豊かなのだ。裏表総合した国民総生産額は大きい。一流国家のなかでも中位に位置すると評価できる。一時期、EU圏内で「次の破綻組はイタリア」と警戒されたが、どうしてどうしてイタリアは元気であった。
イタリア国家の近現代の歩み
現代のイタリアの前身であるイタリア王国が成立したのは1861年で、まだ統一国家としての歴史は150年ほどである。
1861年2月に、ジュゼッペ・ガリバルディらの戦果を継承したサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が統一し、1861年3月17日にイタリア王国を樹立した。1866年、日伊修好通商条約を締結し日本と国交を樹立。1922年には、ファシスト党のベニート・ムッソリーニが首相となる。その後ムッソリーニは権力の集中を進め、1929年にはローマ教皇庁との間にラテラーノ条約を結び、関係を修復する。1939年9月に勃発した第二次世界大戦には、1940年6月に参戦し同年9月には日独伊三国同盟を締結、1941年12月にはドイツと共に対米宣戦布告を行った。1943年後半には敗色が濃い中ムッソリーニが失脚し連合国側に鞍替え参戦する。同時に、救出されたムッソリーニを首班としたドイツの傀儡政権であるサロ政権が北イタリアを支配する状況になる。しかし、1945年5月8日にドイツが敗北したことにより同政権は崩壊した。大戦終結後の1946年6月2日に行なわれた共和制への移行を問う国民投票では、僅差で共和制移行が決定し、現在のイタリア共和国が成立した。1947年12月27日にイタリア共和国憲法公布、1948年1月1日に施行された。1861年3月 ヴィットーリオ・エマヌエーレII世、イタリア王国建設
1922年11月 ファシスト党ムッソリーニ政権掌握
1929年2月 バチカンとラテラーノ条約調印
1943年7月 ムッソリーニ政権崩壊
1945年12月 キリスト教民主党首班の第一次デ・ガスベリ内閣成立
1946年6月 国民投票で王制廃止
1948年1月 共和国憲法施行関連記事
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