2024年11月24日( 日 )

イタリア元気レポート(7)~紀元ゼロ年、ポンペイは豊かだった

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ポンペイの町を破壊したヴェスヴィオ火山

 ヴェスヴィオ火山はイタリア南部、ナポリ市東方約12キロメートルにある。ヴェスヴィオ火山は2つの山体からなり、外輪山をなすソンマ(最高峰1,132m)と中央丘である狭義のヴェスヴィオ(標高1,281m)によって構成される複合成層火山だ。当初のソンマ火山は標高3,000mほどだったと考えられているが、紀元前8世紀頃の大噴火により、山頂火口が大きくなった。あまりにも激しい噴火によって山体が飛び散り、現在の標高に低くなったと言われる。現在でも定期的に噴火を繰り返している。まさに鹿児島の桜島と同様の噴火活動をしているのだ。

 ヴェスヴィオ火山のふもとにポンペイという町が築かれ始めたのは紀元前6世紀頃。ブドウ栽培と交易で栄え、最盛期には2万人が生活していた。そして今から約2000年前の西暦63年に山麓一帯を襲った大地震を前兆として、79年8月24日(日本では弥生時代)、ローマ時代にあたる。ヴェスヴィオ火山が大噴火を起こし、ふもとの街であるポンペイと周辺のヘルクラネウム(現エルコラーノ)、トッレ・アヌンツィアータが一晩で消滅した。

 注目されるのは2万人の都市ポンペイの周囲にも周辺の街が成立していたということだ。

 現在の主要都市ナポリを含めると、周囲には20万人ほどが生活していたのではないか。大噴火被害の死者は約2000人から1万人以上とされている。噴煙が20kmの高さまで立ち上り、火砕流の速度は時速 100km 以上あったと言われており、逃げ出すことは不可能だった。以後、1944年まで数十回も噴火を繰り返し、なかでも1631年の噴火では死者約3000人を記録している。

 79年の大噴火による火砕流と火山の噴出物によって街全体は埋もれ、本格的な発掘がスタートするまで1700年近く、その存在は地中深くに眠ることとなった。

 ポンペイは1748年から、エルコラーノは1709年から、トッレ・アヌンツィアータは1964年から発掘が進められ、裕福な商業都市であった広大なポンペイの遺跡や、小規模ながらも保存状態のいいリゾート地のエルコラーノ遺跡、トッレ・アヌンツィアータの「ヴィッラ・ディ・オプロンティス」の壁画などが奇跡的に出現した。ポンペイのアポロ神殿、市場や大劇場、公共広場、住宅や商店などからはローマ時代の人々の贅沢で充実した市民生活の様子が見ることができる。

 これらの3都市は1997年、世界遺産(文化遺産)に登録されている。また、火砕流に呑み込まれて死亡したローマ人たちはそのまま火山灰に埋もれており、火山灰の中は遺体部分だけが腐ってなくなり空洞ができていた。考古学者たちはここに石膏を流し込み、逃げまどうポンペイ市民が死んだときの形を再現し当時の大災害の悲惨さを今に伝えている。

国立考古学博物館の貢献

 7月6日、筆者はポンペイ遺跡視察には行かずに、ナポリ国立考古学博物館に向かった。ここにはポンペイ、エルコラーノの遺跡から発掘された品々が展示されていることを耳にしていたからだ。このナポリ国立考古学博物館は、イタリアを2大博物館のひとつである。元々は1759年ナポリ王フェルディナンド4世が膨大な数の美術品を保存・展示する博物館としてスタートした。途中、大学に姿を変えた。

 ポンペイなどでの発掘が本格化すると遺跡から膨大な出土品がでてくる。これらはすべて保存状態がよくモザイクや壁画の色彩は見る人を驚かせる。筆者自身も本当に驚いた。イタリア人の凄さは「出土品を保管するだけでなく、芸術性が高い遺跡発掘物は展示して見てもらおう」と決断したことだ。場の提供として大学からまた博物館としてこのナポリ国立考古学博物館が復元されたのである。筆者の拙い説明はここまでにして、皆さんそれぞれ出土品の写真をご覧いただきたい。

(つづく)

 
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