2024年12月23日( 月 )

巨星堕ちる・ソロン田原学氏~初盆前の最終弔辞(1)

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 マンションの業界ドン・田原学氏が逝去されて4カ月が過ぎ、間もなく初盆を迎える。生前の故人を尊敬して、弔辞を述べたい人たちがまだまだ数多くおられる。初盆を眼前にして、今までに紹介しなかった方々の弔辞を一挙に掲載してみよう。

故人の最悪の悔やみ、息子・司氏

 NetIB-NEWS で7月27日に、『親不孝の典型・ふたりの息子』と下記のように報じた。

 親の名に泥を塗る息子、というのはどの時代にもいるものである。
 まず第一の「息子」。とある中洲有名店の子息が韓国内で詐欺の容疑をかけられ、帰国できない状況にあるようだ。自動車販売業を営む子息は、福岡市内の本店の家賃不払いでトラブルになったこともある、いわばトラブルメーカー。今回の一件を聞いて「ヤレヤレ」とあきれる向きも多いという。

 次に挙げる「息子」田原司氏は、業界を牽引してきた(株)ソロンの故・田原學氏の長男。ここで問題にするのは(株)ザ・クイーンズヒルゴルフ場の処理の件である。故人・田原氏が逝去されて4カ月過ぎようとしている。それなのに下記の法人登記で証明している通り故人である田原學氏が代表取締役に留まっているのだ。故人が4カ月も代表取締役として放置されているのを見たことがない。本来は長男・司氏が対策に奔走するのが筋であるが、全くの放置状態である。生前贈与でしこたま資産を継承したと言われるが、司さんよ!!その息子ぶりでは、オヤジが草葉の陰で泣いているぞ!!

 後で登場する経営者も、「田原さんは息子に甘かった」と指摘する。親不孝の振る舞いの背景には、(株)ザ・クイーンズヒルゴルフ場の処理・民事再生法の対応がある。近々、民事再生法の運びと囁かれているが、責任追及を恐れてタッチすることから逃げているのだろうと囁かれている。疲れ果てた田原未亡人(司氏の母親)が、必死でゴルフ場の後始末に東奔西走しているそうな。

売上の60%をいただいた恩人

 「田原学社長は私の最大の恩人である。今でも一番尊敬する経営者だ」と語るのは、広告代理店の社長。付き合いは、ソロンが昭和50年代半ばからマンション販売を開始した時点からだという。次のように回顧してくれた。


 昭和58年、大分でゴルフ場を買収したときからこの広告も引き受けた。前原のゴルフ場の広告もいただいた。だから、ゴルフ会員権を2口持っている。現在でも、ザ・クイーンズヒルゴルフ場がホームグラウンドである。「任せる」と言ったら、すべてを任せてくれた。そうなると、こちらもいい加減なことはできない。田原社長のところの仕事を最優先して精一杯してきた。
 平成元年から20年まで、弊社のソロンさんの売上比重は60%を占めるまでになっていた。田原社長の凄いところは、仕事を盾にして恩を着せるようなことはしない。また支払い面でも、後になって値切ったり支払いを延ばしたりすることが、一切なかったことである。ここが尊敬の念を抱くところだ。たくさんの同業者が田原社長のところとお付き合いをしていたが、最終的にすべてが潰れ、弊社だけが生き残った。今でも、資金の余裕はないが。
 田原社長の実家は、平凡なサラリーマンである。その平凡な家の育ちであった同氏が、銀行経営者、弁護士、国税関係者という大物と対等に接する様を目の当たりにして、畏怖の念を抱いた。そしてその気配りには感服した。ゴルフ場のプレー、会食中、麻雀、あらゆる接待中の田原社長の応対には、すべて感服していたのがよくわかる。銀行関係者には、田原ファンがたくさんいた。福岡シティ・九州銀行関係者には、心服者が束になっていた。田原社長のおかげで今日まで経営継続できたと、深く深く感謝している。


意外と福岡銀行とは縁がなかった

 田原社長の気配りの天才ぶりを各方面で耳にしたが、福岡銀行とは反りが合わないというか、縁が薄かった。平成2年当時(筆者がサラリーマン時代)に、福銀関係者から「今後、どのデベロッパーとお付き合いしたら良いか」という相談を受けた際に、「意外と田原さんに関する福銀さんの評価は厳しいな」という印象を持った。「福岡シティ・四島頭取との関係が濃厚であるから嫉妬しているのか」とも、ゲスの勘繰りも行った。

 「ソロン・田原社長のおかげで大型マンションの受注をいただいて、技術力を一挙に高めることができました」と感謝するのは、建設会社の副社長。一度に3棟受注したことがある。300戸を超える大型工事だ。ピーク時にはソロンの手形を10億円抱いた。まずはメインの福銀に割引打診をしたのだが、断られた。予想しなかったから慌てた。必死に銀行回りして、親和銀行で割り引いてもらったという経緯がある。

 この副社長も、いまだに首を捻る。「田原社長の気配り・配慮ぶりには、いつも恐縮していました。いつも『仕事では苦労をかけるな』と、施主側の田原社長が先に頭を下げてくるので、対応に困り果てたのです。誰もが、ソロン・田原社長のためならば尽力しようと思うはずなのですがね。ところが、福銀さんとの関係が思いのほかに疎遠であったのには驚きました」と。まー、誰ともすべて濃厚な関係構築にはいかないのが、世の常である。

田原氏の頑張りに刺激を受けて再生できた

 故・田原学氏とは4歳年上のデベ経営者は、「田原社長とは同時期に事業を起こした間柄であった。彼が頑張っていたから、自分の再生があった。不治の病に侵されて亡くなったことを聞いて愕然とした」と悔やむ。この経営者は、平成初期のバブル時代の拡大路線の結末で、倒産の憂き目に遭った経歴の持ち主である。60代はマンション管理業を細々と営んでいた。「もう俺もこれで終わりかな」と弱気になることがたびたびあった。そこに、ちょうど良いタイミングで電話がかかってくる。「元気でやっているね!!」と声をかけられると、「まだまだ挫けてはならない」と闘争心が湧いてきたそうだ。故人は励ましの恩人という存在だ。

 この経営者の運が蘇生をし始めたのは、2008年のリーマン・ショックを過ぎてである。この年に、博多駅南で賃貸マンションを建てるチャンスを掴んだ。家主業の復活である。事業が転がり出すと、人が寄ってくる、情報が集まってくる、銀行がついてくるというのである。一瞬にして、マンション10棟を超える家主業になった。
 「田原社長の励ましのおかげで、事業再生に漕ぎつけた。感謝の念を抱きながら、終身現役を貫きたい」と、故人に哀悼の意を示す。

 

 
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