巨星墜ちる・ソロン田原学氏~初盆前の最終弔辞(3)
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盟友の死に虚脱感に陥る
「予想はしていたが、田原さんの死に向かい合う現実に直面すると虚脱感に陥った。友人代表として弔辞をするつもりでいたが、遺族の方々が公的な葬儀を行わないと決定したことなので口出す筋合いはない。しかし、本音では非常に落胆した。素晴らしい傑物経営者であることは認める。あとで詳細は語るとして彼は息子たちに甘かった。弱点はそれだけかな」と交友の歴史を振り返るのはユニカの緒方寳作社長である。
「アパマン、シノケン、インベスターズなどの若い経営者たちが福岡で力をつけて東京へ進出し、活躍する様を目の当たりにして、大きな頼もしさを抱いている。こういう若者経営者を輩出できる風土を福岡に定着させたのが、田原社長の功労であろう。いわば先発、未開地を切り拓くパイオニアの役割を担った逸材である。田原氏が九州住宅宅地経営協会(九宅経、現在の九州住宅産業協会)の理事長に就いていた時代には、大手デベロッパーの福岡都市圏でのマンション供給シェアを40%以内に抑え、地場デベロッパーで60から65%を占有していた。この実績は、まさしく田原理事長の指導力の賜物である」
緒方社長は、この業界の草分け時代には同業者たちが足の引っ張り合いをするのを見て愕然としたという。サラリーマンを経験して独立した同氏にしてみれば「別次元で陳腐化した業界、大改革の必要あり」と認識したのは成り行きである。改革は必然、という認識を共有していた田原氏は、改革の旗頭としてこの改革を断行したのである。緒方社長から見れば、故人が業界に貢献した最大の功労は、「悪しき体質を一掃してデベロッパーの近代化を推進した」ということだ。緒方社長が感じる故人・田原学氏の貢献は、要約すると上記のようになる。飛びぬけた傑物であったことが改めてよくわかる。
存命ならば不動産事業の拡大も
お互いに事業を起こしながら昭和時代には交流は皆無であった。付き合いが始まったのは平成初頭、バブルが崩壊した1992年頃からだ。色々な議論を積み重ねるうちに「金にしっかりと執着があり、また根性もある経営者である」と尊敬するようになった。年齢も6期先輩ということもあり、年上として立ててきた。田原氏が九宅協理事長に就いて業界のレベルアップに務めたことはすでに述べた通り。緒方氏も後で理事長ポストをこなした。
気心が知れて経営観も同じとなれば共同事業をこなすのも自然の成り行きだ。長崎市稲佐山の裏側、さびれた漁港だった福田地区にソロン・ユニカ共同事業で700戸近いマンションを売出した時には業界は騒然となった。いまや「コアマンションマリナシティ長崎」として、長崎市の新興住宅街でも出色の賑わいを呈している。さまざまな共同事業を繰り返すうちにお互い経営者同士である。離反・別れも生じる。それぞれの経営路線を歩み始めて地元同業者としてライバル関係になる
緒方社長の指摘を最後にまとめておこう。
「田原社長は、もともと腰は悪かった。徹底的に治療することを勧めていたが……。もし、田原社長が生きていたら話であるが、病気さえなければ、佐世保、鹿児島、甘木、地方で買い込んでいた数多くの不動産を事業化し、何百億にもなっていただろう。本当に惜しまれることだ。また倒産しそうなゴルフ場を買収してパブリック化していく構想も持っていたようだ。しかし残念ながら、生命運がなかった。京都大学iPS細胞研究所の山中教授は「10年後にはALSは撲滅できる」と語っている。10年後であれば助かっていたのであろう。これが寿命の定めならば諦めるしかない」。
業界からこれだけ多くの追悼の声が上がる田原学氏。巨星、あまりにも早く墜ちたという印象を拭えない。改めてご冥福をお祈りする。法人名
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