2024年12月23日( 月 )

シリーズ都市福岡に貢献した経営者たち(1)~中内㓛氏(ダイエー創業者)(前)

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 平成と元号が改まって、30年が経過する。今こそ、30年という歴史を総点検するターニングポイントに立たされているのではないか。あらゆる戦線で『平成とは何であったか』が捉え返す作業が始まった。このコーナーでは都市福岡の発展に貢献した企業家たちに焦点を合わせていく。

 まず何よりも、トップバッターとしての功労者としてダイエーの創業者・中内㓛氏を挙げる。若い福岡ソフトバンクホークスのファンたちの大半は、もう球団生みの親である同氏の存在を知らないであろう。功績の最大のポイントは、百道浜に総額2,000億円を投資して福岡ドーム、シーホークホテル福岡(現在のヒルトン福岡シーホーク)を建設したことである。現在に至っても、福岡において単一プロジェクトに2,000億円投資できる企業はない。

中内氏と福岡との関わり

 中内氏は1922年8月2日に出生し、2005年9月19日に83歳で鬼籍に入った。同氏と福岡の縁は何なのか?言われていることは「フィリピン・ルソン島から惨めな敗残兵として帰国した。その引き上げの際に博多港に上陸したから」だそうだ。真偽は定かではない。ただしダイエーの店舗展開においては、1965年の段階で新天町街の横に福岡店を構えたのは事実である。まずは東京開拓という東進戦略を取らずに、福岡進出という西進展開を選択したのだ。

 1971年から72年に天神ショッパーズをオープンしてからの九州地区での店舗展開が本格化した。1981年に9月に地元のスーパーの雄であるユニードを買収したのだ。買収した同社は九州ダイエーに吸収した。この時点でダイエー全社の売上に占める福岡・九州の役割は関西地区に次ぐ2番手であった。中内氏の頭脳のなかでは、福岡地区を単なる「小売の最重要貢献地域」ととらえるだけではなく、単純なものではない戦略が練られていたのであろう。

アジア太平洋博覧会成功で国際都市福岡のスタート

 当時も、福岡市の人口は膨れる一方であった。また福岡市行政側では「工場製造業の都市」という選択を放棄して、「商業・サービス業主体の都市」という道を決定した。そうなると土地不足が深刻になることが予想された。打開策として1982年から早良区百道浜・中央区地行浜沖の埋立計画が具体的に進められた。6年におよぶ工事で140万m2の新規の土地が生みだされた。その場所に1989年3月から9月までアジア太平洋博覧会(よかトピア)が開催されたのだ。

 ある開発担当福岡市職員が振り返る。「埋立用地の地盤を固めるには、博覧会のようなイベントを企画して大量の人を集め、歩いてもらうのが一番手っ取り早い」と。これがよかトピア開催の1つの動機であろう。参加者は当初予想の700万人を超えて823万人となった。この博覧会成功では福岡市はようやく『アジアのゲートウェイ・福岡』を語れる資格を得たのである。中内氏がこの時代先端ゾーン=百道浜・地行浜に着眼したのは必然であった。

1988年南海ホークスを買収

 西鉄ライオンズ球団が、太平洋、クラウンと名を変えて福岡を去ったのが1978年である。ダイエーが南海ホークスを買収した1988年の10年前のことだ。所沢に去った新西武ライオンズは強靭なチームに生まれ変わった。森監督時代にピークを迎え、優勝に次ぐ優勝を収めていた。福岡の野球ファンは失意の状態に陥っていた。「新しい野球チームの到来」を待ち望んでいたのだが、単発な誘致運動に終始していた。線香花火のようなものであった。

 そこに1988年秋、突如として「ダイエーが南海ホークスを買収か」という情報が流れる。となる福岡における誘致運動が再燃してその熱が高まったのは当然である。中内氏が球団経営に食指を動かしていたのは1988年の5年前のことだそうだ。同年8月、当時側近中の側近鈴木達郎専務と相談した。「南海ホークスを買収しましょう。本拠地は福岡へ移すべきです」という進言して即決となった。

 そうなると球団に乗り込む人選・スタッフの選別が重要になる。人選を託された鈴木専務は鵜木洋二氏をトップに補佐に瀬戸山隆三氏を選んだ(この2人のプロフィールは後述)。西郷どんタイプ鵜木氏は瀬戸山氏に他のメンバー選択を任せた。総勢13名が新球団福岡ダイエーホークスに乗り込むことになった。中内氏は13名を集合させて檄を飛ばした。全員に“Dodgers Way”(ドジャース・ウェイ=大リーグ・ロサンゼルスドジャースによる球団の運営手引書)を渡して、「ドジャースの運営を見習ってしっかりやれ」と申し渡されたそうだ。

 鵜木氏は現在、福岡工業大学理事長として活躍中。瀬戸山氏は球団代表として辣腕を振るってその実績が高く買われた。千葉ロッテ球団社長、オリックス・バファローズ執行役員球団本部長などを歴任した。中内氏の功績の1つは社会にあまねく有能な人材を輩出したことだ。

(つづく)

 
(後)

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