2024年11月22日( 金 )

怪物・カマチグループ創設者、蒲池真澄氏(17)

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 これまでカマチグループについて、大企業並みの経営手腕をもつ一企業家という側面から考察、検証を進めてきたが、その業績規模の大きさ、経営手腕の巧みさもさることながら、蒲池眞澄氏が築いてきた人脈の広さにも驚くばかりだ。連載が進むにつれ身近なところからも「蒲地氏とはいささかの付き合いがある」「大変お世話になっている」などの声が耳に入ってくるようになった。そのなかから、何名かの声を選び、掲載する。


銀行員から見た蒲池真澄会長について

(株)データ・マックス顧問 浜崎 裕治

simonoseki 私は1995(平成7)年9月から1999年6月までの約4年間、山口銀行新宿支店長として、様々な経営者や医学博士と出会い、ときには縁を深めてきた。蒲地真澄氏もそのひとりだ。この縁について記す前に、まず蒲池氏と同様、印象に残っている1人の医師について語りたい。
 エイズ訴訟で訴えられた元帝京大学副学長の阿部英(たけし)氏である。

 山口県長門市の網元の家に生まれ、旧制山口高等学校(現・山口大学)を首席で卒業。その後東京帝国大学(現・東京大学)の医学部に進み、海軍軍医大尉として従軍。終戦後は東京大学に戻り、医学部第一内科助手、講師を務めていた。71年に帝京大学に招かれ医学部教授に就任。
 その後医学部長を務め、87年から96年まで帝京大学の副学長をつとめられた。その間の92年4月には勲三等旭日中綬章を受賞されている。

 私がお会いしたのは副学長を退任される前の1年間であったが、ちょうどジャーナリストの櫻井よしこ氏が薬害エイズ問題を取り上げていたころだった。そのようななかでも阿部副学長は、故郷の山口県豊浦郡菊川町(現・下関市菊川町)に養護専門学校の創設に情熱を燃やしておられたのを記憶している。もし薬害エイズ問題が起きなければ、日本でも先駆的な養護専門学校ができていたのではと思われる。

 蒲池真澄氏が阿部副学長の養護専門学校の創設構想を知っていたかどうかは不明だが、その意思を引継ぐかのように、裸一貫で救急指定の下関カマチ病院(現・下関リハビリテーション病院)の開業後、下関看護リハビリテーション学校の開設は、何か因縁めいたものを感じるのである。

 さてその蒲池氏は下関市立中央病院の勤務医として、多くの患者から慕われていたことから独立。下関で最初の病院である下関カマチ病院の開業を同地でスタートさせ、池友会、そしてカマチグループ発展の源をつくった。
 私はその後大阪支店長を経て2000(平成12)年6月に山口銀行北九州支店長として赴任。同行が池友会グループ新小文字病院の、融資を含めた準メインバンクであったことから、蒲池真澄会長とお会いする縁ができた。
 挨拶にお伺いした時の光景は今も記憶に残っている。下関が、最初の病院開業の地であることもあり、気さくにご挨拶を頂き、最初から打ち解けた雰囲気のなか、話が弾んだ。その後、蒲池会長から池友会が保有する保養所(宗像市)で会食のお誘いを受けた。他の医師も同伴されて和気あいあいの会話が弾むなか、蒲池会長が今後の病院経営に対する情熱を熱く語られたのが印象的だった。病院経営者のみならず事業意欲の旺盛な企業経営者の方々には、とかくドロドロした人が多いなか、その時の蒲地会長の印象は銀行員の目には、「この人は単なる市井の病院経営者ではなく、将来日本の医療業界をリードする逸材」と映ったことが、今も鮮明に思い出される。

 北九州支店長はわずか1年間だけだったためお付き合いは短かったが、その後、新行橋病院の新築披露の際も招待も受けた。この時もやはり前回同様に、「地域に根差した高度医療専門病院の建設に貢献する姿」が印象的だったのを思い出す。

(つづく)

<プロフィール>
hamasaki浜崎 裕治(はまさき ゆうじ)
1945(昭和20)年、山口県下関市生まれ。同志社大学卒業。1970(昭和45)年山口銀行入行後、新宿支店長、大阪支店長、北九州支店長を経て、2001(平成13)年取締役宇部支店長就任。05(平成17)年同行退任後、数社の取締役を歴任。現在、(株)データ・マックス顧問。14(平成26)年、山口銀行での経験をもとにした小説「実録頭取交替」を出版。

 

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