パナソニック(旧・松下電器産業)が三洋電機を子会社化へ--。そもそも松下電器と三洋電機は歴史的なつながりが深い。三洋電機の創業者、故・井植歳男は、「経営の神様」とあがめられた松下電器の創業者、故・松下幸之助の義弟で、松下電器の専務を務めていたことは広く知られている。若い読者のために、両社の関係をおさらいしてみよう。
戦前、松下電器は井植家の同族経営
1918(大正7)年3月、松下幸之助は大阪・大開町で松下電気器具製作所を創業。2畳と4畳半の2間の借家で、4畳半を土間に改造して作業場にした。幸之助23歳、妻むめの21歳、むめのの弟・井植歳男15歳。「世界のパナソニック」は、わずか3人でのスタートだった。
幸之助は血の縁が薄かった。父も母も、彼が独立する前に亡くなった。2人の兄と5人の姉がいたが、全員若くして病死。松下家の血を引き継ぐものは幸之助ただ1人になった。
亡くなった姉がお膳立てしてくれたのが、井植むめのとの結婚。むめのは弟3人をつぎつぎ故郷の淡路島から呼び寄せ、仕事を手伝わせた。のちに三洋電機を創業する井植歳男、祐郎、薫である。
戦前、松下電器を経営していたのは歳男。歳男と幸之助は、何から何まで対照的だった。もっとも違ったのは健康。頑健な体の持ち主の歳男は、年に何回かは寝込んでしまう病弱な幸之助の代理として松下を預かった。
1935(昭和10)年に個人経営から株式会社として発足した松下電器産業の社長は幸之助で、専務は歳男。役員や幹部には井植兄弟をはじめ、むめのの2人の妹の夫や井植家の親戚が名を連ねた。松下電器は、松下家というよりも井植家の同族経営だった。
とはいえ、幸之助が社主の座を渡したわけではない。幸之助は病のため伏しているような時でさえも、歳男を自宅に呼び寄せ、自分の意志を伝え、自ら決断した。
今日風の言い方をすれば、CEO(最高経営責任者)は幸之助で、COO(最高執行責任者)が歳男であった。(敬称略)(日下淳)
つづく