予想もできない金融恐慌の劣化に翻弄、倒産
10月27日夕方、天神のビルで福岡在住宮崎県人会が催されていた。東国原知事も出席しており、会場は華やかな雰囲気に包まれていたのだが、ひとり黒木透会長だけは、沈んだ印象を与えていたのである。「宮崎県特別大使が暗い気分でいたならば県人会の華やかさが失われますよ」と声をかけた。この時点で黒木氏は不動産売却の計画が遅々と進まないことに心を痛め、世間体を繕う余裕を失っていたのであろうか。
ディックスクロキは、同業他社より早い時期に、第一四半期で不動産処分・評価損の赤字引き当てを発表した。処理予定の不動産商品の物件も公にしたこの用意周到さには舌を巻いた(その後の不動産処理進行度合いの検証に関しては、別途コーナーで触れる)。筆者も黒木氏に今後の財務改善・企業再生案を取材した。問題物件の処理計画を聞いて「危機は乗り越えられるかもしれない」という直観を抱いたものだった。
「再起は大丈夫だな」と思われる感触を与えた期待の不動産処理物件の第一号が頓挫した。買い手と目されたオーナーは了解をしたようだが、役員会では否決されたと聞く。黒木氏の落胆は相当なものだったと推測する。再生をかけた意気込みが止まってしまったのだ。この読み違いを「黒木氏の見通しが甘い」と批判するのは容易である。だが倒産の本質は、過去において百戦練磨の同氏ですら、世界規模に拡大した金融危機の加速度的なスピードを読み切れずに挫折をしたことだ。世界規模の金融激変の荒波に翻弄されたのである。
裸一貫での成功に共感を得る
黒木氏は宮崎県出身、大工技術者として工事現場を歩いた。これが建設業との関わりのスタートである。現場で建設技術を習得しつつ、今後の建設ビジネスのあり方を構想していたようだ。「宮崎の田舎にいては大成できない」と福岡に活躍の場を求めた。博多区にある建設会社に勤めたが、同氏のスケールの大きい器を生かしきれない。本人も「自力で勝負してみよう」と独立を決断した。
独立して起こしたのは「黒木事務所」である。地主に対して利回りの良いアパートを提供するビジネスモデルを構築したのだ。「立地条件の選定の目、物件のデザイン力、建築管理能力」に秀でていた。それよりも何よりも「家主さんへ儲けさせてあげる」という使命感が他人の100倍燃えていたことが認知され、お客の信頼を勝ち得た。黒木氏に言わせると「従業員が僅かだから黒木事務所時代が一番、金を使えた」と振り返る。
1992年は、福岡にバブル弾けの様相が鮮明になった年である。この時点から、黒木氏が認めてきたビジネスモデルが、時代の潮流に乗り脚光を浴びるようになる。「建てることが目的ではない。管理物件を増やすために建築を受ける」型を確立したのである。地元のゼネコンも黒木ビジネススタイルを研究するようになった。黒木氏は結構、オープンにノウハウを伝受してきた。しかし、学び、実践実行できたところは極めて稀であった。宮崎から裸一貫、金も地縁も縁故も、無い無い尽くしから成功したことで周囲に確信を与えた功績は大きい。これが第一の功労であろう。
上場の先鞭をつけたトップランナー
バブルが弾ける以前、デペロッパーの先輩たちは上場に挑戦して敢え無く失敗した。公然と上場を口にしていたのは「すまい」、「新生住宅」、「興栄ホーム」などである。上場を口にするけれども、どの企業もあと一歩の前進をしない。すべて、監査のやり方がクリアできずに立ち往生した。無意味な時間が経過する中でバブルが破裂、三社とも破綻する。 この福岡の地で先輩たちの限界の壁を破って上場の先鞭をつけた「ディックスクロキ=黒木透氏」の功績は大だ。これが第二の功労である。誰もが否定できないだろう。
1997年の夏のことだ。当時は弊社の事務所は中央区警固にあった。弊社「I・B」誌上で「頑張る若手不動産業者の対談」でディックスクロキの黒木社長(当時の肩書)、圓井研創(現在のアパマンショップホールディングス)の大村社長、シノハラ建設システム(現在、シノケン)など5社の代表が参加して対談を行った。黒木氏は42歳、大村社長、篠原社長は30代前半の時であった。三人とも「福岡だけでなく東京にも攻めのぼろう」と威勢の良い決意表明をしてくれた。この対談記事は各方面に凄い反響を与えた。11年前のこの時期、まだまだ日本の将来は明るく、黒木、大村、篠原三社長の発言に刺激を受けて前向きに挑戦しようという若手経営者が、たくさん存在していたのである。
黒木社長も常々、この時のことを挨拶で紹介してくれた。「私の上場への志を鮮明にしてくれたのは、データ・マックスさんが「I・B」誌面で、大村さんや篠原さんとの対談を企画してくれたからです」との発言は、情報発信する者にとって身に余る光栄である。ディックスクロキが倒産した14日の夜、アパマンホールディングの大村氏から電話がかかってきた。「コダマさんところの「I・B」で黒木さんと対談をさせてもらって以来、良きライバルとして切磋琢磨してきたのですが、倒産になったなんて本当に残念です」と悔しがっていた。
ディックスクロキがジャスダックに上場。それ以降、刺激を受けた大村社長、篠原社長の会社も上場したことは周知の通りである。三社の上場の事実で、勢い「福岡の不動産業者は元気がある」という神話が全国に轟いた(前記した過去のバブル時代に上場を目指したのは分譲マンション・建売業者である。今回は不動産業者でも業種が違う)。どうであれ黒木氏が上場に成功し、次の二社も後を追って同様に達成できたことで、福岡の若手業者達に刺激を与えたことは事実だ。視野を福岡に留めず、市場ターゲットを、九州、本州、東京、全国へと広げる経営者達が続出したのである。まさしく黒木氏の存在は上場の先鞭をつけた「トップランナー」であったのだ。
黒木氏の経営手法の特色として、共同体方式をとってきたことがある。オーナーとの関係については(お客さまだから当然ではあるが)、取引業者と同じように濃厚な関係を築いてきたことに感心させられる。また、「ディックスクロキは単価が厳しい」と言われることを厳しく戒めてきた。「理不尽な単価こぎり」を律してきたのだ。「甘い単価ではないが、ゼネコン発注単価よりもそこそこある。仕事も確保される」となれば業者は寄ってくるし結束も強くなる。クロキファミリーの綻びが発生したのは浅野工務店の倒産である(早良区・7月倒産)。「ディックスクロキからの仕事が減ったから行き詰った」と同工務店の自己破産申立書に記述されていた。