二宮尊徳(たかのり)は世間では二宮そんとくとして知られている。幼名を金次郎といい、戦前の小学唱歌では「手本は二宮金次郎」の歌詞で知られているが、薪を背負い歩きながら本を読んでいる銅像は、当時の小学校の校庭には必ずといってよいほど立っていた。
もとは相州(今の小田原)の裕福な農家に生まれた金次郎だったが、好人物の父親がまたたく間に財産を減らし、加えて酒匂(さかわ)川の氾濫で一夕にして田畑を失い、二宮家は貧乏のどん底に叩き込まれてしまった。この幼年時代の困窮艱難を心に刻み、生涯忘れなかったところに農政家としての彼の偉業の原点がある。
14才で父を、16才で母を失った金次郎は弟たちと別れ、伯父のもとで働くことになった。辛い日々のうちに彼は一日も早く二宮家を再興することを心に誓った。あるとき金次郎は、路傍に捨てられていた苗の束を廃田の水たまりに植えたところ、やがて籾一俵を得た。一粒の米がやがて数百千倍に増える。これぞ天地の恵みであり、小を積んで大となすことこそ天地の徳の証明である、と金次郎は考えたのである。金次郎は、毎日、夜明け前に起きて入会権がある山に入って薪を切り、二里の道を歩いて小田原城下へ売りに行った。そしてその途中、声をあげて「大学」を読みながら歩いた。かの銅像はこのときの金次郎の姿を偲んで制作されたものである。
向上心の強い金次郎が学問を志したのは当然であったが、加えて彼には、一俵の籾俵に感じた天地の恵みを体系づけて理論化し、広く人々に知らしめたいという思いがあった。これは後に「報徳の仕法」として結実する。「報徳の仕法」は、天地の恵みに対する報徳の道を説くが、決して観念的道徳論ではない。その仕法の実践により財政再建させたものは322ヶ村、廃村寸前の村を一人の困窮民なく、借財もなく、再生させたものは200ヶ村を超えている。こうして、金次郎は24才のとき念願の二宮家再興を果たし、一町四反五畝の田畑を持って小さいながらも地主となった。が、金次郎には天地の理法を追求するという燃えるような思いがあった。田畑の全てを小作に出した金次郎は、小田原藩の家老で1,200石、服部十郎兵衛の邸に若党として勤めることになる。
彼が服部家に奉公したのは、学問への期待があったからである。服部家の若い三人の息子を藩校へ送迎するのが金次郎の仕事であったが、その講義中戸外で「四書五経」などを立ち聞きして独り学んだ。理財の才にも恵まれていた金次郎は、服部家を去るときに経費節減の私案として「御家政取直趣法帳」を十郎兵衛に提出していた。3年後、これがきっかけとなって服部家から家政の建て直しを乞われ、今度は財政顧問として服部家に仕えることになる。
借財の山をかかえこんでいる服部家のために金次郎は倹約を説き、さまざまな手段をとり実践に移している。小田原藩の低利融資を利用して高利の借金を返済し、また徹底して経費の節約に努めさせた。例えば燃料を節約させるために鍋釜の底についたススをこそぎ落させているが、彼のユニークなところはその何の価値もないススを奉公人達から買い取っている。彼らに節約が得になることを覚えさせ、倹約への意欲をかきたてることが第一の目的であった。その根底には彼独自の「推譲」の思想があった。「報徳の仕法」を実践面からみると「推譲の仕法」となる。
「推譲の道は百石の者、五十石の暮らしを立て、五十石を譲ると云(いう)。この推譲の法は我が教え第一の法にして即ち家産維持かつ漸次増殖の道なり。家産を永遠に維持すべき道は、このはかになし。<二宮翁夜話の四>」
天地の理法を考えたとき、譲ということが人の道となる。譲という意味にはいろいろあるが、今日の物を明日に、今年の物を来年に譲るも譲である。貯蓄も譲であるし、子孫に譲るのも譲である。ここまでは自分のための譲であるから、何の教えがなくても誰でもできる。しかし、親戚朋友のために譲り、郷里のために譲るのは難しい。さらに難しいのは国家のために譲ることである。長い目で見ればこれらも結局自分のためであるが、現実に目の前で支出するために難しいのである。家産あるものは家法を定め分度を決めて推譲を行うべきである。
千石の村に数百戸あって一戸十石とし、これが富でも貧でもないボーダーラインだとすると、各戸に一石づつ譲れば、それぞれ11石の富者となるではないかというのが、尊徳の持論であった。また二宮尊徳の金銭感覚も時代を超えて卓抜である。「米倉に米俵を積み上げ、何年待っても米は増えないが、この米を売った金を運用すれば2倍、3倍の利息が稼げる」と尊徳は考えた。農民達個々の零細な金でもまとまれば大きくなる。それを貸し付けて利を生ませ、その利益を村に還元し農地を改良する。農民信用金庫の構想である。尊徳は今から140年前にこのことを説いていた。その考えの奥底には農民に対する深い人間愛があった。
服部家再建後、彼には財政再建の依頼が相次ぐ。農政官としての彼は寸暇を惜しんで領内を巡回し、農民達への援助と指導を続けた。荒地を開墾する農夫などをみると、尊徳は自分の田畑を処分した金の中から惜し気もなく賞金を与えた。下野国(栃木県)桜町領に赴任した尊徳はいち早く気象の異常を感じ、領内の領民達に各戸に一反ずつ、稗、粟などを蒔くことを厳しく命じた。いずれも冷害に強い作物である。
米よりも利益率が低いこれらの作物を半強制的に作らせることの見返りとして、これらの雑穀には年貢をかけないことにしたために稗、粟の作付は進んだ。金次郎の予感は的中し、その秋の大冷害により、諸国は大凶作となり、餓死者は各地にあふれた。天保の大飢饉である。しかし尊徳の指導によって各戸一人5俵以上の雑穀を蓄えていた桜町領からは一人の餓死者も出なかった。
小宮 徹/公認会計士
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