調査結果の発表文に疑問
その試運転での事故だ。四電にも荏原にとっても深刻だったのは間違いない。だからこそ事故翌日の四電建設所長、荏原四国支店長という現地におけるトップ同士の話し合いがあったという本田氏の証言には説得力がある。 「私はその場に呼ばれ、『火災事故は隠すように』と両者から言い渡されました」(本田氏)。 荏原の四国支店で官公庁から民間まで数多くの工事を手掛け、すでにベテランになっていた本田氏。技術者としての良心と会社への忠誠心の狭間で思い悩んできた。そして04年に荏原との縁が切れたうえ、「06年に内部告発が罪にならないことを知った」(本田氏)ため、古い事故でもその重大性から保安院へ調査を依頼した。
問題はその保安院の対応だ。本田氏の申告に対する調査結果を発表したのが翌07年1月29日。『四国電力(株)伊方発電所3号機の消火ポンプに関する申告について』と題したそれは、(1)申告内容(2)調査方法及び調査内容(3)調査結果(4)結論(5)その他で構成されたA4用紙2枚のもの。内容は後述するとして、一読して発表が信用できないことを表しているのは最後の「その他」で、「申告者の連絡先が不明であるため」に「申告者への通知については本件の公表を以て代える」とあることだ。「私は最初から氏名、住所すべて名乗って申告しました」という本田氏が疑問を持つのは当然。何よりも矛盾しているのは、発表3日後の2月1日付けで保安院から本田氏宛に先の発表文が届けられていることだ。3日目に同氏の住所がわかったというのだろうか。 「最初から出先ではなく保安院そのものに報告。それ以来、報告書が届くまで何も連絡はありません。こんな調査結果が出たなんて発表文が届いて初めて知りました」(本田氏)。
その内容は同氏がしてきたこととはまるで違っていた。詳細は省くが調査では「エンジンを動かすことなく」2台のポンプの連携チェックを行なった際、ケーブルに過大電流が流れて焼損したが直ちに消火したとしている。ポンプのエンジンを試運転したからこその事故という本田氏の報告がはるかに説得力がある。
真相解明できぬ保安院
こんな調査結果になるのは、四電側のみ聴取し、本田氏からは再聴取もしていないため。「連絡先不明」だからであり、何よりも本田氏から詳細を聞けば四電に不都合だからだろう。四電に保安院に出した書類の閲覧を要請したが拒否され、保安院は「大半の資料は四電に返却し、残してあるものは情報公開請求が必要」(原子力施設安全情報申告調査委員会)だという。 発表文では、「ケーブルがくすぶった程度」で火災ではないから消防署に届けなかった、とする四電の報告を追認。取材に対しても「当時の3号機は建設中で、燃料装荷前なので電気事業法などの法令に抵触する事案ではありません」(同委員会)と発表文の結論通りの回答。つまり基本的に保安院の関与すべきことではない、ということだ。また問題のポンプも地元消防長の検査を受け、消防法上の問題なしとする四電主張を認めている。
「それもとんでもない話で、工事終了後の検査は工事責任者が立ち会わなければならない。私がいた93年2月まで検査は受けなかったし、その後も検査の立ち会いに呼ばれたことはありません」と本田氏。地元の八幡浜地区設備事務組合消防本部は、「93年9月に立ち入り検査」(予防課)したことを認め、四電は「93年12月に『消防用設備等検査済証』を受けています」(原子力部)という。施行側は本田氏以外の第三者が立ち会ったことになるが、消防本部や四電はもとより、荏原自身も「古いことで不明」(広報課)という。 「やっていないんです。だから真相解明を保安院に再三再四頼んでもダメ。『税金で仕事している邪魔をするな』と脅かした職員もいました」(本田氏)。 伊方3号は94年から現在も稼働している。「これまでポンプの取り換えはありません」(前出・消防本部)というから、建設時のそれが今も使われている。それが正規の手続きを踏んだ検査を経ていなかったとすれば、ゾッとする。それでも保安院は関知しないというのだろうか。
恩田 勝亘【おんだ・かつのぶ】
1943年生まれ。67年より女性誌や雑誌のライター。71年より『週刊現代』記者として長年スクープを連発。2007年からはフリーに転じ、政治・経済・社会問題とテーマは幅広い。チェルノブイリ原子力発電所現地特派員レポートなどで健筆を振るっている。著書に『東京電力・帝国の暗黒』(七つ森書館)、『原発に子孫の命は売れない―舛倉隆と棚塩原発反対同盟23年の闘い』(七つ森書館)、『仏教の格言』(KKベストセラーズ)、『日本に君臨するもの』(主婦の友社―共著)など。
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