鎖国時代、わが国にとって唯一の海外情報源はオランダからのものだった。幕府を中心に蘭学の研究は次第に盛んになっていたが、佐賀藩で蘭学が研究されはじめたのは諸藩にくらべて必ずしも早い方ではなかった。天保5年(1835)には藩がかねてから予定していた医学寮が開設されオランダ医学教育が始まった。寮監に任命されたのは佐賀蘭学の先駆者・島本良順である。医学寮は後に好生館と改称され、やがてその中に蘭学寮が併設されて藩の蘭学研究の拠点となった。
蘭学寮の研究は医学だけにとどまらず、物理学、化学、数学、語学などが研究され、やがて藩の科学技術部門の「火術方」の管理下に移されると、蘭学寮は西洋の最新技術を専門研究を主務とするようになっていく。このころ、朱子学重視の弘道館教育にあきたりなかった大隈重信が、二十数名の学生とともに蘭学寮に入学してきた。大隈らは、ほとんど手探りの状態から勉強を始め、やがて大きく羽ばたいていく幕末佐賀の洋学研究の糸口を開いていくことになる。
万延元年(1860)渡米した咸臨丸には小出千之助ほか数名の佐賀藩士が乗り組んでいた。小出は藩主の鍋島直正にアメリカでの見聞をもとに世界の中心がイギリスとアメリカに移っていることを伝え英学の必要性を進言した。この進言によって直正は、蘭学寮の優秀な数名の学生に英語による洋学の研究を命じた。その後佐賀藩の英学研究は着実に進み、慶応3年(1867)には大隈重信や副島種臣らを中心とする英学校「致遠館」が設置された。英学においては他藩にさきがけての創設である。
英学研究にとくに熱心だったのは大隈重信だった。彼は幕府の長崎英語伝習所のフルベッキ教授をスカウトして致遠館の校長に据えた。深い見識と懇切な指導で人気が高かったフルベッキには他藩の招聘の手も延びていたが、最終的には佐賀藩の知識吸収に向ける熱心さがフルベッキを動かした。勉学を通じて彼と藩士との絆はいよいよ深くなっていった。
フルベッキの講義は一日おきにおこなわれた。宣教師のフルベッキは「新約聖書」を基本教本に「アメリカ合衆国憲法」を主教材として授業を行った。それ以外の授業は大隈重信と副島種臣が担当、欧米の政治や法制を講義し学生たちと議論しあった。フルベッキの在任期間はわずか2年だったが、この時期、学を通じて情報を吸収し議論によってさらに確かな知識とする佐賀洋学の手法が確立されていった。蘭医学に始まり科学技術の進展から英学にいたる佐賀実学は日本の先頭を駆け抜けていった。致遠館をリードした大隈は、後に東京専門学校(現在の早稲田大学)を創設する。
小宮 徹/公認会計士
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