ユダヤ商法、華僑商法、印度商法は世界の三大商法といわれている。「華僑」という言葉の語源は、北方から南方に移住する者を「僑人」と呼んだところにあるようだ。漢民族の歴史は、蛮狄の侵攻を受け南遷を余儀なくされた歴史ともいえるが、その中に一貫して流れているものは失われた郷土の復活と同族結集の意識からなる。このような背景で「華僑」という言葉は、故郷をはなれ海外で生活する中国人の総称となった。
中国系商人の商売上の精神的支えとなっているものに陶朱公の「商人の宝」がある。この「商人の宝」は理財致富十二則から成り、今なお多くの商家で信奉されている。
陶朱公は紀元前5世紀頃の中国春秋時代の越の人で、本名は范蠡(FAN LI)という。越王の勾践に仕え、呉王の夫差と戦い会稽の恥をそそいだ功臣である。日本でも「天勾践を空しうすることなかれ、時に范蠡なきにしもあらず」という児島高徳の詩でもよく知られている。
呉と越との戦いは、十八史略の中でも、もっともエキサイティングなストーリーの一つであるが最終的に越の勾践が呉の夫差を破ったのは、勾践が范蠡のいうことを聴く耳をもっていたからである。范蠡はつねづね勾践にこう言っていた。「常に心をみなぎらせている者には天の助けがある。ひたすら苦難に耐える者には人の助けがある。もっぱら用を節して質素をまもる者には地の助けがある。」
呉を滅ぼした後、范蠡は上将軍と称され名声を極めた。しかし彼は「大名のもとには久しく居り難い」と考えて、すべてを捨て一族とともに斉に移った。彼は斉で交易をはじめたが、物資の過不足を考え、高いときには惜しみなく売り、安いときには珠玉を求めるように惜しんで買い、やがて巨富を築いた。しかし斉の国王が、彼の才を見込んで宰相に迎えようとしたとき、それを辞退し巨富をことごとく人びとに分けあたえて陶に移った。
陶では、彼は朱と名前を変え、やがてまた巨万の利を得る。彼は十九年の間に、三度巨富を得、そのうち二度までそれを散じて貧しい人びとに与えたといわれている。こういういきさつで彼は陶朱公と呼ばれ、商業の神様として後世の尊敬を受けているのである。陶朱公の「商人の宝」は次のように、十二則、から成っている。
(理財致富十二則)
1.能識人 人をみる目を養うこと
2.能接納 礼儀正しく丁寧にもてなすこと
3.能安業 本業を守ること
4.能整頓 整理、整頓を心がけること
5.能敏捷 決断と行動を敏捷にすること
6.能討脹 回収に努力すること
7.能用人 適材適所で人を使うこと
8.能弁論 討議する才能を持つこと
9.能弁質 商品に対する目を肥やすこと
10.能知機 タイミングを逃さないこと
11.能偶率 率先遂行で人を指導すること
この「商人の宝」が今から2500年も前につくられていたことに驚かされる。ちなみにこのころ、わが国ではまだ縄文式文化の時代であり、人びとは狩りとか漁撈で生活していたころで、中国文化の深遠さをつくづくと感じさせられる。「商人の宝」は現代的な経営管理論としても高く評価することができるが、何よりも敬服させられることは、この教訓が2500年もの間信奉され続けてきたということである。
小宮 徹/公認会計士
(株)オリオン会計社 http://www.orionnet.jp/
※記事へのご意見はこちら