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今、歴史から元気をもらおう

【連載】 今、歴史から元気をもらおう(26)田沼意次の税制改革
今、歴史から元気をもらおう
2009年7月29日 16:06

 歴史上、田沼意次ほど評価が極端に分かれる人物も少ないであろう。弓削道鏡、足利尊氏などとともに「賄賂の問屋」などと言われて悪徳政治家の代表とされてきた。彦根藩主の井伊直幸は、畳三畳ほどの箱庭に小判や金銀をちりばめて贈ったとか、薩摩藩主の島津重豪は長さ三間の白銀の船に金銀をぎっしりつめて贈ったとかいう話は枚挙にいとまがない。贈賄しようとする者は、たいていオランダ人に珍しい宝物をつくらせ、田沼の家紋である七曜をきざませたので、オランダ人は七曜は日本国のしるしだろうと考えたほどだったという。

 意次のそのような拝金主義は、重農主義から重商主義に移ろうとしている時代を背景とするものであった。そのような時代認識のもと、次々と新しい経済政策を打ち出した手腕はなみではない。1955年アメリカで出版された「タヌマ・オキツグ」という本では、印藩沼の干拓、株仲間の公認、ロシアとの貿易計画など進歩的な財政家として「近代の先駆者」という位置付けがされているほどである。大名の意次ファンも多く、島津重豪なども意次と思いを同じくし従来のろう習に挑戦したのだった。重豪はこれまで質実剛健のみを美徳とし、他国人にはいっさい胸襟を開こうとしなかった薩摩の保守的な空気を破るために、鹿児島の街で江戸芝居をやらせたり、上方の遊女を連れてきたりした。薩摩を江戸につないでこれを広い世界に押しだそうとした重豪の考え方や政策は、意次のそれと一脈通ずるものがあった。

 意次の幕政の表面に躍り出たのは租税問題が契機だった。当時の九代将軍家重の時代(1745~1760)は、江戸時代で最も大がかりな一揆が多発した時代である。その中でも特徴的なのが美濃国郡上八幡の一揆である。阿波踊りなどとともに日本三大踊りの一つといわれる郡上踊りは、宝暦4年から8年まで足かけ5年という長期にわたって闘われた郡上一揆の領民を融和するために始められたものである。ひと夏を通じて踊り抜くという特異な形は、反面からいうとこの一揆がいかに長期間にわたって農民に苦しみを与えてきたかということを示すものである。一揆の発端は、領主金森頼錦(よりかね)が幕府で出世するための資金がいるということで「有毛検見法(ありげけみほう)」という新しい税法を採用しようとしたことに始まる。有毛検見法というのは「百姓と胡麻の油は絞れば絞るほど出るものなり」と放言した将軍吉宗時代の勘定奉行神尾若狭守が案出した過酷な徴税法である。

 農民たちは団結して藩と交渉し一旦はこの税法を撤回させたが、あくまで増税をしたかった藩側は、幕閣の有力筋を通して庄屋たちに圧力をかけた。これに怒った農民たちは、申し合わせて全藩あげての大一揆に突入したのである。藩側の懐柔策もあって一時は鎮静化すると思われたが、藩側が一揆の首謀者を処刑したことから事態は一気に悪化、農民側も抗戦派と妥協派に分裂して、他国に例をみない長く悲惨な闘争が続くことになる。

 この事件は、結局幕府の評定所に持ち込まれ裁定されるころとなった。その結果領主金森頼錦は改易、私的に藩を支援した幕閣筋も改易などの厳罰に処せられるというわが国一揆史上でも例を見ない為政者に厳しい措置がとられた。この幕閣処分で神尾若狭守に連なる幕府の年貢増徴派が幕府の中心部から一掃され、代わって田沼意次が財政再建の期待を担って登場してくるのである。

 意次はこの郡上一揆の処理が終わった宝暦八年の九日、それまでの五千石から一挙に加増を受けて一万石の大名に取り立てられた。その後宝暦十年五月、将軍家重が退いて次の家治が将軍になると、彼はさらに重用を受け側用人に抜擢される。それ以後も目をみはるような昇進をとげ、老中でありながら側用人も兼ねるという、それまでのどの幕臣も持つことのなかった巨大な権力を握る。

 意次は、この時代急速に力をつけてきた商人グループに目をつけ、冥加金という形の流通税を設けた。年貢という直接税の担税力が弱体化したことの対策として間接税を採用したのである。しかしこの間接税は個々の商人に個別に課されたものでなく、仲間組合単位に課税されるものであった。商人達は冥加金の代わりに営業権の独占を要求し、ここに国をあげての巨大な利権構造が作り上げられていった。

 冒頭にも述べたように、田沼意次に対する後世の評価は極端に分かれるが、彼自身はそれまでの幕政の伝統にとらわれない自由な発想を持ち、これを強引に進めようとしたことが多くの誤解を生んだのではないかと思われる。当時の封建社会の基調であった、金銭を賤しめて米穀を重んずるという「貴穀賤金(きこくせんきん)」の思想から見れば「貴金賤穀」とでもいうべき意次の考え方そのものが受け入れ難いものであった。その上、軽輩から成り上がった意次が、譜代の重臣を無視して財力にものをいわせて次々と新政策を打ち出していくことも守旧派にとっては脅威だったに違いない。意次に対する世間の異常なほどの憎悪の震源地もそのあたりにあったのではないだろうか。

 意次の理解者であった家治が病に伏し、死去すると、流石の意次も次第にその力を失い、やがて天明六年(1786)八月、ついに老中を免職され、翌七年には本領も没収されて閉門の身となった。意次の居城遠州相良城は、十日間に人夫一万人を動員して徹底的に破壊されたという。  

小宮 徹/公認会計士
(株)オリオン会計社 http://www.orionnet.jp/

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