藩の実権を握って前藩主の寵臣たちを罷免、改革派を登用して本格的な藩政改革に乗り出した鍋島直正は、財政再建、農村改革、教育改革を藩政再建の三本柱とした。この改革運動の大きな推進役となったのが古賀穀堂である。穀堂は早くから「洋学研究」の必要性を説き、自然科学も政治経済もオランダだけでなく広く西洋の諸国に学ぶべきであると主張していた。奇跡といわれた幕末佐賀藩の藩政改革の底流に穀堂の啓蒙思想があったことはまちがいない。穀堂は直正とともに佐賀に戻った翌年、「済救封事」を現わして藩政再建の具体的な指針を示した。その骨子は、質素倹約の励行、人材の登用、産業振興、学問の奨励などであった。六歳のときから穀堂の薫陶を受けていた直正は、彼の死後もその思想を受け継いでブレることがなかった。
直正が先ず手をつけなければならなかったのは借金(当時は銀で取引していたので正確には借銀)の整理である。借銀の精算は「利留永年賦」と「打切」によって行われた。「利留永年賦」は利息を全額免除のうえ、元金を最長百ヵ年賦で少しずつ返済し、「打切」は元金のごく一部を支払い残額は藩に献金させて清算するという現在の民事再生法も顔負けの手法である。こうして佐賀藩は実質的にはほとんどの借銀を踏み倒してしまった。ソロバン高いはずの大阪商人が、直正のことを「ソロバン大名」と呼んであきれたという話が伝わっている。
佐賀藩はもともと豊かな農業生産を誇っていたが、商品経済の浸透につれて農民たちは土地を質にいれて借金し、その結果、土地を手放して商人地主から土地を借りて小作料を支払いながら農業をおこなう小作人に転落していった。ために農民たちは年貢と地代の二重の負担に苦しむことになる。そこで、佐賀藩は「農商分離」の政策を採用、「加地子猶予」を発令して小作人が地主に納める地料(加地子)を減免して年貢徴収を確実なものとするとともに農民を保護するという抜本的農村改革を行った。
穀堂は、かねて意見書「学政管見」で「新しい時代を担うべき有為な人材育成のためには、教育予算は削らず、逆に三倍にふやすべき」と主張していたが、直正は藩主になると同時に、藩財政は最悪の状態にあるにもかかわらず藩校弘道館の充実を指示した。弘道館の予算は当初百七十石だったが、佐賀城北堀端に移転した天保11年(1840)には、千石に加増、敷地も千九百坪から五千四百坪に広がり、教室や講堂、武芸場、寄宿舎など設備の充実を見るにいたった。上級から下級まで全ての藩士子弟の入学を求めた弘道館における教育は厳格をきわめ、課業は朝六時からときとして夜十時に及んだ。校則となる「文武課業法」は、優秀な成績を収めたものは、身分にかかわらず藩政に抜擢する一方、二十五歳までに学問と武道が一定の水準に達しないときは家禄を減らすと明示していた。
安政元年(1854)7月、直正は長崎でオランダから幕府に贈られたスームビング号(観光丸)に乗りこんだとき「私の家来たちは、とにかく学ばなければならないのだ」と語っている。改革が進んでいてもなお、直正が“学ぶこと”に藩の命運がかかっていると認識していたことを示す逸話である。弘道館で学んだ人材は藩政に登用され、佐賀藩が西洋の最新の情報を吸収し消化する原動力となった。幕末期の佐賀藩は、幕府をもしのぐ日本最先端の強力な科学技術力、軍事技術力を実現していたのである。銑鉄を溶解するための反射炉を日本で最初に手がけた佐賀藩の蘭学研究は他藩にさきがけていた。
佐賀藩の蘭学研究は医学から始まっている。天保5年(1834)に設立された「医学館」は、当初漢方医学を教えていたが、佐賀蘭学の先駆者といわれる島本良順が寮監となってからは蘭学を積極的にとりいれ、やがて「医学館」から独立しての「蘭学寮」がつくられる。さらに「蘭学寮」が「火術方」の管理下におかれるようになると、蘭学寮では語学だけではなく、科学・軍事にわたる西洋の知識が急速な勢いで研究される。財政再建で生み出された余裕資金は軍備の充実にまわされた。戊辰戦争のとき、上野の山に立てこもった彰義隊を木っ端微塵に吹き飛ばしたのは佐賀藩の2門のアームストロング施条鋼砲だった。このアームストロング砲は会津の会戦でも威力を発揮し、勇猛を誇る会津武士の息の根を止めた。
明治2年(1869)1月20日、薩長土肥の4藩主が版籍奉還の建白書を提出した。翌3年までには全部の藩が奉還を終り、旧藩主はそのまま藩知事に任命された。明治4年(1871)4月14日、廃藩置県が断行され日本は中央集権政府のもとに統一される。直正はその年の1月すでに死去していたので、彼はついに新しい「佐賀県」の誕生を目にすることはなかった。
小宮 徹/公認会計士
(株)オリオン会計社 http://www.orionnet.jp/
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