「日本のケネディ」。外国のメディアは、衆院選の民主党圧勝で新首相になる鳩山由紀夫・民主党代表を、こう紹介した。「鳩山代表は日本政界の名家出身で、生い立ちの似た故・ケネディ米大統領とよく比較される」と報じた。鳩山家は、四代にわたる政界の超エリート家系としてあまりにも有名だ。
<祖父は元首相>
政治家一族・鳩山家の始祖は、鳩山和夫(1856~1911年)である。江戸末期の美作勝山藩(岡山県)の武士で、明治維新後、開成所法律科(後の東大法学部)を卒業。第一回留学生に選ばれ、米国に留学している。コロンビア大学とエール大学を卒業、日本で第一号の法学博士になった。帰国後、弁護士になり、多方面で活躍。専修大学の創立にかかわり、東大法学部教授、早稲田大学学長を務めた。政界にも進出し、40歳の若さで衆議院議長となった。
和夫は生涯に渡って北海道開拓に尽力。鳩山川、鳩山池、鳩山神社まで現存する。鳩山由紀夫が北海道から立候補したのは、曾祖父の関係からだ。
二代目は鳩山一郎(1883~1959年)。一高-東大法学部を優秀な成績で卒業、父同様弁護士になった。政界へ出たのは、父・和夫が他界してから。1915年、32歳で代議士となった。
戦前の政治活動に汚点がついた。鳩山一郎は1930年の帝国議会で、浜口雄幸内閣がロンドン海軍軍縮条約を締結したのは、天皇の統帥権の独立を犯したものだと攻撃した。野党の政友会議員だった鳩山は、与党の民政党政権を苦しめるため、統帥権をもちだして難癖をつけたわけだが、これに勢いづいたのが軍部。軍部は統帥権の独立を盾に、政府の決定や方針を無視して暴走を始めるきっかけになった。このことが戦後、GHQから「軍部の台頭に協力した軍国主義者」として公職追放される一因となった。
公職追放が解除になり、52年に政界に復帰。政敵の吉田茂と戦い、保守合同によって自民党を結党して首相になったのは54年、71歳の時だ。55年後、吉田茂の孫・麻生太郎から、鳩山一郎の孫・由紀夫に首相交代するのは、どこか因縁めいている。
<大富豪と縁戚に>
三代目は鳩山威一郎(1918~93年)。大秀才の誉れが高い。東大法学部を全優で卒業した銀時計組で、一番で大蔵省に入り、海軍経理学校へ転出したときも一番だった。戦後、大蔵省に戻り、出世コースを一直線。71年、官僚トップの事務次官に就いた。退官後は参議院議員となり、外務相を務めた。
威一郎が妻に娶ったのが、日本の大富豪として有名なブリヂストンの創業者、石橋正二郎(1889~1976年)の長女・安子である。正二郎と鳩山一郎が知り合ったのは戦前、知人の紹介で両国の相撲見物に出かけたとき。親同士が一郎の長男・威一郎と正二郎の長女・安子の結婚を決めた。戦後、正二郎は資金スポンサーとなって鳩山内閣実現の影の功労者となった。
(つづく)
【日下 淳】
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