<吉本王国のドン・林正之助>
吉本せいを支えたのが、弟の林正之助と弘高の兄弟。戦前から大阪は兄の正之助、東京は弟の弘高に委ねられていた。正之助は、出し物を落語中心から漫才中心に転換、目玉は背広姿で登場した横山エンタツ・花菱アチャコだった。今日の、シャベクリ漫才の原点である。
穎右とせいが相次いで亡くなったため、吉本興業の実権は吉本家から林家に移った。吉本興業を継いだのは正之助である。兄弟間で主導権争いが起きる。弘高はボウリング場など経営の多角化を進めたが、本業の演芸部門には冷淡だった。東京と大阪の抗争が勃発し、勝利したのが正之助。弘高派の幹部は粛清された。正之助は3回社長になり、91年に92歳で亡くなるまで、「吉本王国のドン」として君臨した。
正之助の後を継いだのが林裕章。正之助の一人娘・林マサの夫だ。05年に裕章が急死すると、吉野伊佐男(現・会長)が社長に就いた。独自路線を強める吉野社長ら経営陣に対して、それを創業一族離れと見る林家が反発を強めた。
07年、テレビのお笑い番組を席巻する吉本興業が、創業家と経営陣の対立で揺れた。主役は正之助の一人娘・林マサ。息子の正樹を社長に据えたい野望が、内紛の発端とされる。笑うに笑えないお家騒動である。
<マサとカウスの暴露合戦>
林マサと漫才師・中田カウスの間の告発合戦が、週刊誌を舞台に繰り広げられた。07年3月下旬に週刊誌が、創業者一族と関係のある元暴力団幹部の実業家に、大崎洋副社長(当時、現社長)が脅迫されたと報道。これに対し、マサが別の週刊誌で中田カウスの黒い交際を告発する手記を発表。「カウスは経営陣にも影響を及ぼしている」と主張した。
双方の暴露合戦のなかで、中邨(なかむら)秀雄・元名誉会長の巨額の使途不明金疑惑、それに伴うカウスによる中邨への恐喝疑惑が暴露された。こわもてのカウスは、裕章の裏工作人として不祥事の処理にあたってきたが、裕章の死後、現経営陣に馬を乗り換えた。それでマサは「裏切り者」と怒ったという。
もとはといえば、吉本興業に所属する芸人のカウスが暗躍できたのは、裕章らの不祥事があったからだ。結局、マサは吉本家などほかの大株主を味方につけることができなかった。
林家と経営陣の泥沼の抗争が、嫌気売りを誘い株価は低迷。買収を仕掛けられるとの観測が飛び交った。経営陣が打った手が非上場化。買収の阻止と創業家の排除を狙った。
吉本興業は1912年の創業以来続いてきた同族・世襲経営と訣別した。(敬称略)
【日下 淳】
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