秀吉が、いつ頃から信長に仕えたのかは定かではない。すくなくとも桶狭間の合戦(永禄三年、1560年)には秀吉の記録は残されていない。秀吉が信長の知行状に、木下藤吉郎秀吉として公式に署名するのは、永禄八年(1565年)のことである。彼が薪奉行として正式に管理職に就任したのはおそらくこの前後のことであろう。
薪奉行は、奉行職の末席とはいえ会社で言えば重役である。せいぜい小者頭だった藤吉郎にしてみれば、目もくらむような大抜擢人事だったに違いない。案の定、柴田勝家を始めとする家老たちは猛反対した。小者がいきなり奉行になるというのでは、織田家の面目にかかわるというのである。しかし、序列よりも才能を重視する信長は、この人事を鶴の一声で押し切った。
この少し前、信長の注目を引く一つの出来事があった。領地を視察していた信長がとある山林にさしかかったとき、ふと、この山の木の数をかぞえてみようと思い立った。信長の命令に咄嗟のこととて右往左往する部下達に苛立ちを隠さない信長を見て、藤吉郎は千本の縄を用意させた。その縄をすべての木にくくりつけた後で藤吉郎は、残った縄の数を数えた。このとき信長は彼の財政的手腕を見抜いたのである。
薪奉行に任命された秀吉は、すぐ信長の抜擢の意図を理解した。城内の薪の使い方がルーズで無駄な出費が嵩んでいたのである。秀吉の身上は思い切りの良さである。早速薪奉行になりきって、その職務を忠実に果たすべく、先ず薪や炭の在庫量と使用量を徹底的に調べ上げた。その結果、在庫が過剰で、薪や炭の使用もかなりルーズで、相当の無駄があることを発見したのである。さらに購入記録を精査した結果、価格が二重になっており、担当者が御用商人達からリベートを受け取っていたことまで判明した。
事件発生。しかし、ここから秀吉のやりかたは、普通の人とひと味ちがっていた。彼は、将来の出世のために無用の敵を作らないよう細心の注意を払っていたので、担当者のリベート問題を内分に済ませるとともに、商人達を集めてこう言った。
「これまでのことを殿に申し上げれば、先のお奉行にお咎めがあるのは必定。そなたたちにも罪が及ぶのは免れがたい。しかし、わしは事を荒立てることは好まぬゆえ、そのほうたちも十分反省し、これからは誠意をもって織田家に協力するよう。」
商人達は、秀吉が全てを自分の胸に納めてくれた度量の大きさと、事が露見した時の信長の厳しさを思い併せて、ただただ頭を下げるばかりだった。敵をつくらずに、ことを納める秀吉の面目躍如たるものがある。作家司馬遼太郎にして「人たらしの名人」と言わせた所以である。
小宮 徹/公認会計士
(株)オリオン会計社 http://www.orionnet.jp/
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