天下人になってからの秀吉が、ある日近臣たちに向かって、「わしの死後は誰が天下人になると思うか、遠慮なく申してみよ」と言ったところ、近臣たちはいずれも、家康、利家、隆景など五大老の名を挙げた。
これを聞いて秀吉は首を横に振り、「お前たちは肝心の者を忘れている。わしが死ねば、あの足の悪い官兵衛が天下をとるだろう」と言った。その理由を秀吉は、「事に当たっての思慮の深さ、裁断の速さはとても自分が及ぶものではなく、その上心は剛健で、よく人に任せ、度量が広く、先の見えることは天下に比類なき男である。もし官兵衛が望めばすぐにでも天下を得るであろう」と説明した。
人たらしの名人の秀吉にこのように言わせた黒田官兵衛は、後世の史家達からは策士中の策士としての評価を受けているが、彼自身は「誠意こそ最大の策である」という哲学を持っていた。彼の行動は常に爽やかであり、誠実さに満ちており、荒木村重の謀反に際して、官兵衛がとった行動がそのことを鮮やかに示している。
天正6年9月、摂津の領主・荒木村重が、織田家に叛旗を翻し、毛利方へ寝返った。官兵衛は村重に思い直すように書面を送って説得したが、信長の性格をよく知っていた村重は、信長に詫びを入れて恭順する気持ちは持っていなかった。いったん離反した以上、信長が絶対に許さないことを知っていたのである。
官兵衛は、村重の居城・有岡城に単身で乗り込み、村重を説得することにした。相当に危険な仕事である。官兵衛はキリシタンだったので、同じキリシタンの村重の命を救いたかったのである。しかし、有岡城に乗り込んだ官兵衛は村重との対面を許されず、いきなり城内の西北隅の牢獄に投げ込まれた。村重が官兵衛を殺さなかったのは、やはり、同じキリシタンだったからだと言われている。
この牢獄は、うしろに深い溜池、三方は竹藪に囲まれて、陽光が射すこともない湿気の多い薄暗い牢獄で、この世の地獄のようなところであったという。官兵衛はこれから一年余りもこの地獄のような牢の中で、節を曲げずに生き抜くのである。
このとき黒田家は重大なピンチに見舞われていた。官兵衛の父・職隆は官兵衛を見捨ててでも織田家に忠誠を誓う決意だったにもかかわらず、猜疑心の強い信長は、官兵衛が村重に与(くみ)したものと思い、官兵衛の子・松寿丸(後の黒田長政)をすぐ殺すように厳命したのである。これを聞いた秀吉の参謀・竹中半兵衛は、安土に赴き官兵衛の無実を弁じた。しかし信長は耳をかさなかった。
一番困ったのが秀吉である。主命に背けば信長のことである、どのような厳罰が下されるか分からない。しかし、黒田家の嫡子を殺してしまえば、今後の中国攻めでは黒田家を敵にまわすことになる。さんざん悩んだ末に秀吉は半兵衛と相談の上、殺したと偽りの報告をしておいて、松寿丸を半兵衛の居城の菩提山城に隠してしまった。約一年後の有岡城落城寸前、栗山善助ら家来の手によって危うく助けられた官兵衛は、全身衰弱し、湿気のために膝頭に瘡(かさ)が生じ、片足が屈んで起きることもできなかった。
この姿を見た信長はとっさにすべての事情を察した。流石の信長も何と言ってよいか分からず、「有馬の湯へ行って存分に養生せよ」と言うのがやっとだった。折をみて、秀吉が厳罰を覚悟の上で松寿丸がまだ生きていることを信長に報告したが信長は何も言わなかったという。秀吉のことである。信長の気をうかがいながら懸命の芝居をしたのであろう。このときの秀吉と半衛兵の連係プレーがなかったら、後年の黒田長政は存在しなかったことになる。
一年に及ぶ幽閉は、官兵衛にとって大災厄であった。しかし反面、官兵衛という人物の節操の固さ、不屈の気概を天下に知らしめて、それまではとかく弁舌の徒であり、策士にすぎないと見ていた武将たちもその考えを改めたに違いない。冒頭の秀吉の発言も、このような事情を背景にしていると考えられる。
有岡城の獄中で官兵衛は、竹藪からのびた藤蔓が窓にからみつき、新芽を吹いてやがて紫の花房を開いていくのを見ていた。ともすれば萎えそうになる心を励ますために、藤の花が咲くようにやがては世に咲きいでる、と自分に言い聞かせたという。のちに黒田家の家紋は、この官兵衛の辛苦を語り伝えるために「藤巴(ふじどもえ)」とされた。
乱世はあらゆる権謀術策が渦巻く時代である。しかし、そういう時代だからこそ、却って弁舌だけで人を信用させることは難しい。人は誠意に敏感である。当時は出所進退を明らかにすることが人の誠の表明にもなっていた。官兵衛はそのことをよく知っていた。
秀吉が次の天下人は黒田官兵衛であろうと言ったことを伝え聞くと、官兵衛はすぐに剃髪して隠居の決意を固めた。禍が黒田家に及ぶことを恐れたからである。隠居後、「如水」と称した。水の如く淡々として野心のないことを天下に示したのであろう。
関ヶ原の合戦では長政を東軍に従軍させ、自らは九州で大友義統を破った。戦後、家康が重く用いようとしたが、彼は固辞してこれを受けなかった。
小宮 徹/公認会計士
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